ちなみに本屋lighthouse出版部は「商業出版では採算がとれないと判断されてしまうであろう規模感・内容」のものを出版するのが目的のひとつで、それがだいたい数百から千部くらいを数年かけて売り切ることができればいい、というイメージのものになっている(ただ、この規模感はおそらく学術出版も同じくらいではある)。この規模感で書き手と版元=私に、多くはないが少なくもない収入が入ればいい、つまり食っていくのに少し足しになればいい、というイメージでやっていて、それは自分なりの資本主義=商業出版への抵抗でもある。だから取次経由での納品はできないままにしているし、書店の利益率と書き手の印税率も可能な限り高くするようにもしている(前者は最大40%、後者は現状15%だけど目標は20%)。

この規模感での出版はむしろいまこそ大切になると思う。結局、「速く・たくさん」売ることを目的とした/せざるを得ないやりかたでは、行き着く先はバズり=インプレッションになり、つまるところそれはひろゆきやら石丸やらイーロンやらになるほかないということでしかない。いくらリベラルだとか反差別だとかエシカルだとか中身を設定していても、そのためにとる手段=形式がバズることを必要としてしまうなら、その土俵=仕組みの中での勝者は常にインフルエンサーになってしまう。

これは政治や社会を動かすときにも同じで、速くたくさんの人に情報を届ける&それをもとに動いてもらうことを目的としているうちは、やはり勝者は常にひろゆきやらなんやらになってしまうのだと思う。

From:
fedibird.com/@gucchi_penguin/1 [参照]

拡散力で勝負する/拡散力に頼るしかない、というありかたから脱却して、それを勝負の判定基準とする土俵から降りないといけない。

たぶん、兵庫県知事批判がいつのまにかPR担当者批判になり、もはや批判ですらない「嘲笑」になっている例がたくさん生じているのも、拡散力の魅力に自覚のないまま取り憑かれて飲み込まれている者が多いからなのだと思う。

批判するのが楽しくなってきたら危険信号だと思う。本来、批判はされるのもするのもどちらもリスクやコストがかかるもので、本質的には楽しくはないもののはず。だからたいていの者らはわざわざそんなことせずに「気にせずに済む者」のままでいることを選ぶわけだけど、1周まわって批判することが楽しくなってしまってる者らによる弊害が出ているのではないか。そしてその状況を作り出すのが「拡散力」を価値判断基準にした環境ということ。自分の発言が拡散されるのは楽しいので。

いま、このような中身の発信をMastodonでしかしないでいるのも、拡散させない/されないことを目的のひとつとしているからだったりする。お店としてなにか発信するときも、テーマ性のあるものは基本的にメルマガにしている。拡散されなくてはならない土俵には、可能なかぎり乗らない。

速くたくさん結果を出す、ということがとにかく素晴らしいこととされているのがいまの世の中で、それに抗わなければ勝ち目がないのがリベラル的なありかただと思うのだけど、現実は乗っかってしまっている。そうなるとどちらも加速主義的なたたかいかたになるので、そこに関わる存在が酷使されることになる。酷使されれば疲弊する。人も環境も疲弊したらいつか壊れる。壊れかけている者が歪んだ形のSOSを発する=攻撃的な行為をし、その批判もまた壊れかけている者がするので攻撃的なものになる。酷使と疲弊が積み重なる。

シュクラーの言う「残酷さを低減する」はやはり重要テーマだと思う。差別主義者を許すな!というのは正しいが、そのせいで残酷さの量や度合いが高まってしまうのなら、まわりまわってその「残酷さの総量が増えた社会」に生きる我々はみな疲弊することになるのではないか。

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差別行為を代表とする攻撃的な行為を歪んだ形で発せられたSOSとして捉え、そのケアを担おうとする者のことを完全否定するようになれば、行き着く先は地獄なのではないか。

「差別(行為)を許さない」と「差別をした/してしまった者(の存在)を許さない」は別物だが、これを混同してしまう土壌をSNSが作っている気もする。

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