都知事選のあれこれ、立候補者に始まり箕輪の蓮舫支持します投稿とか、ようは「悪ふざけでアテンション集めて気持ちよくなる」の類なのだけど、これはリベラル側もやってしまうことなんですよね。藤井セイラの「百合子雑誌」とか典型。で、「悪ふざけでアテンションを集める」ことに関してリベラル側にはそもそもの時点で勝ち目がないわけだから、その土俵に乗ってるうちは負け続けるわけで、つまりこういう指摘をされて納得できないのであれば、当然のように今後も負け続けるだけですよね。
あと、百合子雑誌がよろしくないのは、「政治のこととかあんまり触れたくないんだよね」と思っている層が最も忌避するやり方を、まさにその雑誌風画像そのものがやらかしているところ。必要な批判と不必要な揶揄の区別がつけられないからこそ「批判しすぎ/誰も傷つけたくない」みたいなことを思ってしまうのに、揶揄風の批判を見せつけたら嫌がられるに決まっている。
たとえば糸井重里のクソ投稿を引用して批判するときに、なぜ糸井のような者がSNSを離れさえすれば地獄を味わずに済むのか、逆にSNSでも現実社会でも地獄を味わわされることから逃れられない者がいるということ(なぜそうなるのか)を説明しつつ引用をすれば、善人でありたいと思っているノンポリにはある程度響くものになる。しかしその引用に罵詈雑言のように心優しきノンポリからは思えるようなものを混ぜてしまう、あるいはそれを主軸にした投稿をしてしまうと、差別だとか社会構造の偏りだとかの「前提知識」を持たないノンポリたちには、単に「口汚いことを言っている者」にしか見えなくなってしまう。
草の根を拡げていくのなら、まずは土を耕さなくてはならない。土を耕すというのは、荒れている土地に農具を入れて掘り返し、そこに肥料だとかの栄養素を混ぜていくことであり、それはノンポリ=初心者たちが「なにを知っていてなにを知らないのか」をまず先達が知り、どのように教えていけば正しく知識を得てもらえるかを考え、実践し、改良を重ねていくことなのではないのか。誰にも手入れをされないまま痩せ衰えてしまった土に雑に種を蒔き、乱暴に水をやり、育たないことを罵ることではない。当然、種の種類や個体差ごとに育ちやすい環境も違う。そういうめんどくささを引き受けずに「教育」「啓蒙」をしているつもりになっているうちは、永遠にかれらノンポリは味方にならない。
トーンポリシングをしてはならないのは事実だが、同時に「発言のトーン次第で伝わらなくなってしまう相手がいる」のも事実であり、後者を意識できる余裕がある者はそちらを(そちらも)意識しなくてはならないと思う。