権力側に楯突くな!ルールを守れ!と権力側に痛めつけられてる側であるにも言ってしまうその心理、ひとつは嫉妬。自分はこんなに我慢してるのに、お前だけ抜け駆けするなよ。もうひとつは連帯責任への恐怖。お前がそうやって目をつけられることすると、自分まで怒られるじゃないか。ほかにもいろいろあるだろうけど、このふたつがまぜこぜになってるのは確かだと思う。
ゆえに、①嫉妬系に対する処方箋→あなたも我慢しなくていいし、ルールそのものが変われば我慢しなくても済むようになるのだから、ともにたたかおうよ。というものに対しても、②連帯責任への恐怖→いや、そもそもそうやって歯向かうこと自体が怒られる理由になるのだから、そんなことしないでほしい。
となり、抵抗するという提案は否決されるのではないか。確かにこれは愚かな思考回路だが、我々はなかなか「怒られること」への恐怖心を克服できるわけではない。
むかし家にあった『サッカークリニック』という指導者向け雑誌にもこんなことが書いてあった記憶がある。日本の子どもたちはコーチに言われたプレーをするのは得意だけど、「いまのプレーはどういう理由から?」とか「こういう局面ではどうするといいと思う?」というような質問にはまったく答えられない、と。逆に、外国の子どもたちはコーチに言われた通りのプレーをするのは苦手だけど、上の質問をすると積極的に自分の意見を言うらしい。もちろんこれはすべてに当てはまるものではない。しかしこのような傾向があることは、自分がサッカーをやっていたからこそ体感してもいる。確かに私(たち)は「間違ったプレーをしないこと=コーチに怒られないこと」を意識していた面が大いにある。
もちろん、あらゆる状況において「怒ってはならない」というわけではない。怒るべき状況や、怒るべき者は存在する。私はマジョリティである面/状況が多いので、怒ることよりも教育的な要素を前面に出すことが可能なのであって、かつそうすることが役割のときもある、ということ。怒るべき状況にある者が、怒ることで悪者にならないためには、怒られることに耐性のある者を増やしていかないとならないので。