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家族という制度の歴史をやってる関係で歴史人口学をちょっとかじったのですが、歴史上の平均寿命(0歳の平均余命)は、乳幼児死亡率の高さのせいでかなり低く出ます。成人になるまで生き延びると後はそこそこ長生きするので、みんなが40歳で死んでいた…というわけではないかと思います。

マンガもアニメもバスケ自体もまっっったく知らないサラな状態で『スラムダンク』を観てきます。

だいたい時間を潰す時はドトールかエクセルかタリーズかクリエかベックスあたりなんだけど、今日はウェンディーズなんかに入ってみたり。喧騒っぷりがちがう。まあどのみちイヤホンするんですけどね。

立憲・泉代表の乃木神社行ったよツイート、「なんでそんなことしたの???」っていう真意を知りたいなとどんよりしながら思うよ。「そんなこと」っていうのはつまり、なんでそのツイートをしたのかっていうことだけど。
一般市民ですら、特にフォロワーがある程度多ければ余計に、「このツイートはやばいこと言ってないか」って自分の投稿を懸念するし、「たぶんこれ呟いたらこういう反応返ってくるだろうな……」っていう想像はまあ、しませんか? 政党の代表がそれ考えないでツイートしてるんだったらそれはそれでやばい。「乃木神社ってなんかだめなの??(きょとん)」だったとして、いや神社本庁の超ド級差別も公になってて、それでそこまで『神社関連のツイート』に無頓着でいられるのはやべえだろ、ってなります。
泉代表のインターネットに対する意識がどんなもんなのかわからないのであれだけど、「いやいや考えてるよ」ってなったら、それはその……あえて乃木神社を選んで、そしてその選択に「特に懸念するところはない」っていうことになるの?? それはやばくない? それともこれに反応するかどうか試してんの??? それもやばくない??

と私は思っちゃう。つまりどっちに転んでも「なんでそういうことするんだよ………………」なんですよね………………。

泉健太がおっちょこちょいからなのか意図的になのか、そんなことはどーーーでもいいんだよね。なぜこちらが好意的に解釈してやらねばならんのか。王子様か。その時点で勘違いも甚だしいってやつで。

仮におっちょこで「やっちまった」ことであっても、だったら「そのままで済ます」わけがない。これを大問題だと感じるかどうか。その感性、問題意識が問われてるわけで。そうなると「駄目だと指摘受けたけど訂正すらできない問題意識」ってことになるので、意図は結局どっちでもよくなる。

オタク界隈でもしょっちゅういるんやけど、「合わへんなら黙って離れろ」的なこと言う人。いや、文句というか普通に批判はするよ。買って読んだんやから、票入れたんやから。聞きたくなかったら自分が耳塞いだらいいのでは?と思う

先日起きた、某出版社による新刊の自主回収という出来事を受けて、一人の物書きとして、自分なりに思うところをまとめてみました。お読みいただけると嬉しいです。

note.com/gendaibun/n/n61cc181b

小林よしのりの脳内じゃあるまいし、「カッコイイ戦争」なんてものは存在しないから。

> リアリティを追求する、という意見もあるだろう。しかし、〈反ヘイト〉を主題とする作品に求められるリアリティとは、ヘイト表現それ自体の持つリアリティなのか。その作品が真に〈反ヘイト〉を描きたいなら、そこに必要なリアリティとは、ヘイトによって、その宛先である人々、あるいはヘイター本人にいったいどのようなことが起きるのか、その心的過程についてのリアリティではないのか。

note.com/gendaibun/n/n61cc181b

colaboの件についてツイッターでちょっと書いただけで、そりゃもう、めんどくさい方たちがですね。なんで自分のほうが賢い前提でもの喋れるんだろうな。

政治的な意見の違いとかではなく、自分のほうが賢い前提でいるバカが無理。

本の書き手として、予備校講師という属性以外はまったく期待されていないとわかるとつらい。いや、もちろん参考書はそれでいいのだけれど、一般書は、なんというか、そういうのが書きたいんじゃないのよ。「もっと予備校講師としての色を前面に出して」みたいなことを言われると、一気にしんどくなる。まあ、予備校講師としての経験以外に何も持たない人間だから、そう要求されるのは当然なんだけれども。でも、やっぱり、しんどい。

はたと正体に気付いてしまった。前半で中継されていた場所が、一切出てこないのだ。例年であれば、年越しの前後で同じ場所をピックアップして放送しているのに、まったく見当違いというか、目新しい寺社仏閣ばかりが映し出される。

それだけではない。さっきまでと明確に異なる点があった。アナウンサーのメンツだ。テレビの画面に映っている女子アナは、2022年、つまり「ゆく年」の夏頃に局を退社し、フリーになっているはずだった。そして前半の中継は、彼女ではなかった。

混乱する俺をよそに、番組の放送が終わりに差し掛かる。アナウンサーの口から放たれた掛け声に、俺は耳を疑った。

「2022年、皆さんにとってよい1年となりますように!」

余計な時空まで飛び越えたことに心底後悔しながら今年(再)を過ごした事は言うまでもないだろう。

やっと会えたね、2023年。

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毎年の大晦日は「ゆく年くる年」を見ながら過ごすのが恒例だ。このしんみりとした雰囲気が何となく好きなのだ。どこかのお寺からにこやかに中継するアナウンサー。その背後には一目テレビに映ってやろうとおちゃらる連中がたくさんいる。ふと、彼らのようにはっちゃけてみるのも悪くないと思った。

23:59:59、日付の変わる瞬間、俺は「飛ん」だ。ベタベタなネタである。だがこの瞬間、俺は確かに「地球からいなくなっ」てしまった。人間の跳躍力で宙に留まっていられるのなんて、せいぜい1秒がいいところだ。予想した通りに、俺は床に着地した。なんて事はない。

ふと、違和感を覚えた。テレビでは相変わらず「ゆく年くる年」が、新年を迎えた各地の様子を中継している。放送は23:45に始まり0:15に終わる。いつものパターンだから既視感があるのも当たり前と最初は思っていた。だが、どうも何か変だ。なんとなく、繋がっていないような気がする。

儀式・儀礼的なものの魔術性を否定していくのが広義のリベラリズムだとスーパーウルトラざっくり言ったとき、その解放が個人を理不尽な抑圧から確実に救うと思うんだけど、しかし人間はそういう魔術性込みの共同性を完全に排除すると、それはそれでやっぱり耐えられなくなってしまう部分があるって問題、どうしたらいいんですかね

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