> 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
(日本国憲法より)
母方の祖母に、東京大空襲の話を聞いたことがある。母の弟(私の叔父)はその時まだ乳飲み子で、叔父を背負った祖母、母、母の妹(私の叔母)で、焼夷弾の雨霰を逃げ惑ったとのことだった。
四人の目の前で、焼夷弾が爆発した。
母も叔母も祖母も吹っ飛ばされたが、三人ともたいした怪我はなかった。
ところが、祖母が背負っていたはずの乳飲み子の姿が見当たらない。
祖母は、叔父の名前を叫びながら辺りを見回し、すぐにその姿を認めた。ぐったりとし、口の周りに赤黒い血がこびりついているように見えたそうだ。
なお、叔父はまだ存命である。実は、口の周りの血のようなものは泥に炎が反射したもので、乳飲み子の叔父は、かすり傷一つ負っていなかったらしい。
「おばあちゃんは、そのときどんなことを思ったの?」
この話を聞いた際、まだ小学生だった私は、そう尋ねた。
「何も思わなかったよ。ただ『息子は死んだ』とわかっただけ。悲しいとか思う余裕もなかった」
祖母は、そう言っていた。
最愛の息子の死をすら、悲しむことを不可能にするのが戦争なのだ。それは、人間から人間を奪うことに等しい。
日本が戦争に向けて、また一歩、歩みを進めた日に。
テスト。
> インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。
(2022 12/9 共同通信「防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導」より)
https://nordot.app/973917552334143488
これは完全に規律訓練型権力による従順な主体の構築を目指すもの。
私は、誰か専門家の方に、普通の中学生くらいから読めるような「監視社会」の超超超入門書を書いてほしい。
電脳時空間における規律訓練型権力の遍在やそこでの主体化など、少し思想を齧った人間なら常識の範疇だとは思うが、そうでない人々とも、こうした知は分かち持つ必要がある──この記事を読み、痛烈にそう感じた。
このようなことを言うと怒られてしまうかもしれないが、学問的な厳密性などざっくり犠牲にしてでも、とにかくわかりやすく伝わる言葉で、たくさんの具体例を交えて、普段、学問からは遠くの距離にいる人たちにも届くように。
平尾さんが指摘するように「とにかく指導者に従え」「先輩の指示には”はい”と言え」というスポーツ環境は、子どもたちの主体性を奪う。暴力的指導や過剰な負荷をまるで「美談」のように報じてきたメディアの責任も。例えば炎天下の甲子園、命の危険もあるのでは?と▶ https://youtu.be/ynBNMGoDvvM #d4p
昨日の杉田水脈氏の更迭を求める緊急集会。直前の告知でしたが多くの方が参加。LGBTQ+だけでなく在日コリアン4世の大学生やアイヌ女性会議等のメッセージも。BuzzFeedの取材を受けました「松岡宗嗣さんは、『これは杉田氏本人の問題でもあるが、やはり政権の問題だと強く訴えるべき』と言い、岸田政権の任命責任が問われていると指摘」「上辺だけの謝罪・撤回を重ねているだけで、政治家としての説明責任も果たしておらず(略)やはり更迭すべきと言えるはずです」「『杉田氏ばかり追及し続けても根本の問題を解決しない』と考える人もいるかもしれません(略)杉田氏を更迭することすらできないような政権が、ジェンダー平等や性的マイノリティの権利を保障する政策を進められるはずがありません」「だからこそ、これは政権の問題だと強く声を上げていく必要がある」
https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/sugita-mio-protest-20221210?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter
樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋)。
『仮面ライダーBLACK SUN』を観た後で読むと、何だか情景がありありと浮かぶ。
そしてこれも映画になるんですよね。
https://www.amazon.co.jp/彼は早稲田で死んだ-大学構内リンチ殺人事件の永遠-樋田-毅/dp/4163914455
〜テッサ・モーリス=鈴木(著)、大川正彦(訳)『辺境から眺める アイヌが経験する近代』(みすず書房)〜
ナショナルな歴史が形成されていくその渦中で、アイヌは、マージナルな存在として分節され、〈排除/包摂〉されていくことになる。
が、しかし、そうした視点を相対化するなら、そこには、日本史やロシア史の"付属"としてではない、まったく別の歴史や文化圏のありようが見えてくる。
例えば、〈農耕=文明/狩猟採集=未開〉という大文字の世界史が前提とするコードの恣意性。
著者であるテッサ・モーリス=鈴木が自らをどのような思想的立ち位置にアイデンティファイしているのかは知らないが、私は本書を、ポストモダン思想そしてポストコロニアル批評の大きな成果の一つだと思う。さらに言うなら、初版の2000年から20年以上経った現在、本書の提言は、より重要性を増している、とすら。
ポストモダン思想もポストコロニアル批評も、その訴えるところは、決して、"一過性の流行"として消費していいものではない。本書はそのことを、思い出させてくれる。
残念ながら崔洋一氏もなかなかのパワハラ気質だった模様。
2009年てまだこんな内容を武勇伝として記事にして問題にならなかったのね。