大事な時に一人になりたい心理?
もし自分に何か重大な病気が見つかって誰かに連絡をしておく必要が生じた場合、自分は誰に連絡するだろうか。
多分血縁者に連絡しておくのが筋なのだろうけれど、実はあまり気が進まない。
では他に誰に連絡しておくのかというと、これもまた思い浮かばない。
アウグスチヌスは死ぬ1週間位前から人を遠ざけていたと聞いた事があるのだが、死に至る前であれ大事な瞬間なり何かを迎える前であれ、そういう時には一人でいたいものだと最近よく思う。
もし誰かに会うなら、全くの赤の他人が良いような気はする。
こうした一連の思考の過程にはどんな心理的な背景が潜んでいるのか自分でもよく分からないのが、少し探ってみる価値があるのかもしれないと思った。
ノーマスクの人達に共通の心理的傾向はあるか?
行政に限らず一般に役職者は、また自営業者は非マスク率が高いように感じるのだけれど(自分の観測範囲内での話です)、仮にそれが事実だったとしてそうなる理由は何なのだろうか?
(1)役職に就いたり、自立的な働き方を実践しているような自分は強者であると認識しているが故に、感染症程度では倒れるはずがないとでも思い込んでいるのだろうか?
(2)他にも、独立性が高いというか群れを作らない習性的なものが仮に備わっているとして、他の人達とのコミュニケーションの質が群れを作る人達と異なっていたりするのだろうか?
そこで行き交っている情報が群れている人達とは違う結果として、感染対策が群れている人達と異なったものとなっているだとか?
(3)先に挙げた2者では経済を重視する志向が強いのかもしれない。
経済重視の人達の中にはどういう訳か感染対策がややもすると疎かになりがちになるような傾向も、自分の観測範囲内では見受けられる為、こういった人達は非マスクを選択するのかもしれない。
取り留めのない空想で根拠に乏しいが、何となく思い付いた事を書き留めてみた。
誰でも思い付くような事かもしれないが、何かものを考える時のヒントにでもなれば幸いである。
小馬鹿にする態度の問題点
x上で免疫に関する専門家の説明に接する機会があった。
説明自体は明晰であって素人でも何となく程度は分かりそうなものに思えたのだけれど、最後に付け加えられた論敵に対するものと思われる、嫌味と思しき部分を見て結構嫌な気分になった。
それ以外にも所々に、相手を小馬鹿にしているかのような発言が見られた。
それらは本当に必要な部分だったのだろうか?
それほど詳しくなかったり間違いを犯していたりするような人々と専門家とのやり取りは、第三者にとってとても勉強になると思うのだが、不見識な人を萎縮させる可能性のありそうな専門家からのコメントは、専門家への新たな質問を減らす可能性があるのかもしれないと思う。
もしそうなれば、知識の効率的な伝達に支障が出るのではないか。
尤も、こういう状況が発生しうるのは往々にして専門家の知識に対して対価が発生していない時であるような気もするので何とも言えないのだが……。
各種デマにご注意。
最近思うのは、どんな話題からでも政府批判に繋げられるのは相当特殊なスキルなのではないかという事。
https://twitter.com/amaochi/status/1747076972428275940?t=N-lNYbe2CZcmD4RJclCXRQ&s=19
志賀原発に関する情報。
Q&Aがある。
感情を増幅させたり煽ったりする各種媒体の餌食にならないように、置いておきます。
https://twitter.com/tamakiyuichiro/status/1746657049357004883?t=MENV6zEexoDKBLMPRTQ4vA&s=19
MRワクチン接種完了。Tdapもそのうちに
MRワクチンを打ってきた。
過去に受けた事はあるものの、1回だけだったので念の為に受けてきた。
¥8500もしたのだが、それでも恐らく感染した場合のリスクというかダメージの大きさを考えると妥当というか、少し安いようにすら感じられる。
コロナに関する情報を集めていく中で、ワクチン一般に関する啓発なども色々あり、それが今回の接種に繋がった感じ。
最近の震災の前から破傷風のリスクを自分は恐れていて、ジフテリア•百日咳•破傷風に効果があるらしいTdapという成人3種混合ワクチンを打とうと思っていた。
それは¥7000位かかると思う。
破傷風のワクチンは10年程度で更新して打っていくものだというような発信を目にして、打っておこうと思った。
効率の良い支援?
(xで内容の似た投稿を見つけたのだけれど)多分被災地からできる限り脱出させるみたいな方向の支援方法もあったんじゃないかなと思う。
とはいえ現行のやり方も他地域での受け入れを組み合わせているようだから、悪くはないと思うが(例えば都は都営住宅を提供するという話があったはず)。
あと、これは今する話ではないと思うが今後復興というのはどこまで進めるのだろう?
過疎だったという話も聞くし、そこが大きな被害を受けた場合、"元へ戻す"というのは聞こえが悪いがコストパフォーマンス的な点でかなり悪くなってしまうのでは?
高齢化も進んでいるとかいう話も聞いたし、(希望者には)都市部へ移住(?)してもらうという方向の話もあって良いような。
コロナは終わっていない……恐らく。
地震や事故のニュースとは別に(並行して?)、何気にコロナの流行(被災地以外の話です)も勢いを増してきたような気がするので、要注意だと思う。
新年会やるぞみたいな話も見たが……個人的には、そういうのはもしやるならオンラインでが良いのではと思います。
そしてマスクをしている人もあまり増えていないような気がして、この先どうなるんだろう等とも思っています。
新しい変異体に加えて、"コロナ禍が終わった"というような意識も相まって、1•2月は悲惨なことになりかねないな等と思っています。
救急出場の数を見ると*非常に*多いようなんですよね……自分が万が一運ばれるような事になった時に無事運ばれ(て医療に繋がれ)る事ができるように、医療への負担を軽減できるような行動を自他共に心掛けられたら良いのにな等とも思います。
誰も悪くない、皆が犠牲者だったのだから……
「一人が死んで、それで民全体が救われるのであればそれは結構な話ではないか……(超•意訳)」というフレーズを聖書の何処かで見たような気がしますが、自分が参照元のような事を思い付いたのはこのような背景があったからなのかもしれませんね。
誰かを糾弾しておいた後、暫く経ってから
"今明らかになる真実、◯◯事故の真相、誰某と何某の攻防のn日間、本紙記者独占取材!"
という本を出てきて、ジャーナリスト特別賞か何かをゲットするところまでが既定路線だと思っていますし、その本の中では皆が所謂犠牲者だった……というような、お涙頂戴ものの情緒的な結論が下されるのではないかと予想しています。
……自分は悲惨なニュースを観すぎて悲観的になっているのでしょうか?? [参照]
結局"悪い"のは誰なのか?"犯人"は誰?
多分事故の原因を関係者の個人的事情にまで落とし込んでしまえば、"一件落着"になるのではないのかな。
それは恐らく、他の人達が咎めを受ける事なく今後を過ごす為に必要という発想なのかもしれないし、誰かが他の人達の罪を背負ってくれればそれで良いという考えなのではないかな。
そしてできるだけ落ち度を一個人に集中させた方が他の人達は安堵できるという事なのかもしれない。
多分そもそもの目標設定が間違っていて、再発予防の観点があまりないのが問題なのではないか。
(再発予防と言わずに)原因究明を目標に掲げていてももっともらしく聞こえるだろうが、実は原因を個人的性質や個人的事情に"無意識的に"求めてしまっているのではないかな等と思ったりした。
極端な事を言うと、"誰かが腹を切って終わりになる"……そういうシナリオを心の何処かで求めてしまっている関係者もいるのではないかなと思いました。
"労働は悪"か?
仕事はなんと9日(!)からなのだが、流石に休みがここまで長いと少しダレてくる。
多分適度にやることを放り込んでおけば違ったのかもしれないが、あいにく無計画のうちに過ごしてしまった。
仕事はメリハリをつけるのに役立っていたのだなとは思うが、他のイベントを休暇中に盛り込む事によってもメリハリはつけられたのではないか。
仕事はその点において楽であって、生活上のリズムを勝手に作ってくれるような気がして有難いと思う。
自分は仕事がある事に関して割と感謝している方だと思っているのだが、所謂社畜みたいな生活をしているらしい人々の前ではこのような感想を漏らすことは憚られる。
そういう訳で、自分も表では労働は悪だという主張に軽く頷いてみせたり、労働に関して例えば賃金が安い等という声を聞くとそうだよね等と相槌を打ったりもする。
……本心では全然そんな事を思っていない場合であっても!
義援金と寄付の性質の違い?
義援金と寄付(支援金)の違いについて学ぶなどしたが、寄付の方が効果的に働く事が多いのではないかと思った。
というのも、分配に携わるらしい自治体などの負担が重そうと思うからであって、更に言えば公平さが本当に重要なのか少し疑う余地があるのではない等と思ったから。
多分スピード感と本当に必要なところへ届くという働きを満たす為には、現状の寄付による(急性的な)活動の後に、寄付を受けた団体が義援金分配的な動きもするのが良いのかもしれないが……。
今回の地震の場合、自治体による義援金の受付窓口が遅れるのではという懸念が(Xにて)表明されているのを見た。
ゆうちょの窓口が正月でどうのこうのだとか、そもそも自治体による窓口設置には時間が掛かる云々。
寄付を受けた団体が(義援金の分配を行う機関が目的としていそうな活動にまで)手を伸ばせたら良いのかもしれないが……、どうなのだろう?
情報提供とその対価(?)の歪み(?)的な何かについて
情報を提供する事自体にお金を発生させるのではなく、(情報をフリーで提供した上でその)情報の咀嚼を助ける(≒理解促進)行為にこそお金を発生させたら良いんじゃないかと思うのだが、どうだろう?
やっている事は結局似てはいるのだろうけれど、お金のせいで情報にアクセスできない例を減らしたり、情報が一部の特権的(?)階級に専有されているような印象を与えない為には知識にフリーでアクセスできる状況を作っておいた方が良いと思うんですよね……。
知識は誰のものなのか、何故フリーではないのか、そして知識からお金を発生させるにはどうしたら良いのか等と考えました。
情報提供者が収益を上げる必要性を認めつつ、情報が専有(?)されないようにするにはどうしたら良いかという話なのですが、それがどういう情報かという情報の性質にもよるのかもしれないですね。
公益性が高かったり、普遍性のある情報については独占•専有の度合い(?)を低めていく必要があるのではないかな等と思ったり。
わかりにくい、OpenCollectiveへの寄付部分について書いたやつです
QT: https://fedibird.com/@noellabo/110761339361299993 [参照]
フーガ(音楽)を好む。
返信がない場合や遅れる場合があります。