ずっと着てなかったノースリーブのワンピースの裾を切って膝丈にして切った布で袖つけて布が余ったから胸元にフリルを付けたらめちゃくちゃ可愛くなったから着て撮れたらみんなにも見せるね
例えばリチャード・ドーキンスや進化生物学のS.ピンガーなどは堂々と「生命の目的は自らの遺伝子をできるだけ多く残すこと」などと断言します。こうした言説は英語圏ではリベラルにも深く浸透している。
しかし、果たしてみなさんの心に問いかけて「イエス」の答えは出るでしょうか?勿論「ノー」の方が大多数の筈。
というのも、「生きる目的」は、各自の「意識」=「心」によって決定され、また変更されるものだから。まず一般的に言えば科学は「目的」を探し出すための情報システムではありません。
ヒトの特徴は、この「生きる」目的の「意識=心」相関性とその不安定性にあるとも言える。
であるから、生きる「目的」を考えないようにする、あるいは「マジョリティ」に流れに身を任すことで「不安」を紛らわす、という選択も起こります。
かつてパスカルはヒトが最も恐れること、それは「暇」ができることと述べました。その「暇」を埋めるために、貴族は宮廷であれこれ社交を創りだしているのだと。
しかし、最後の最後では生きる目的は自分で決めるしかない。この問題に蓋をすると、「自由からの逃走」ではないが、AIに「目的」を決めてもらおう、という倒錯も起こりかねない。
デジタル・ファシズムの源は私達の「こころ」にもありそうです。
アイスランドが国民の遺伝子情報を一企業に委託していることはご存じの方も多いのでは。
映画「湿地」はこの状況を背景にしたサスペンス映画。サスペンスとしても良くできていますが、その過程で「生命倫理」的な問いを浮かび上がらせている、という点でもうまい映画だと思います。
それにしても、「新生児医療」に携わっている友人から、アイスランドでは、現在、ほぼ「ダウン症」がゼロで移行しており、おそらくそのままの率で進むだろう、という話を聞いて複雑な気持ちになったことを思い出しました。これはもちろん、「出生前診断」によるものです。
昨今、「確信犯」のメディアのみならず、世間、あるいは学生のなかにも、むやみに「遺伝」ですべての問題を語ろう、とする傾向が強まっていることには危機感を感じます。
とくに医学部系の学生は、ほぼ完全にそれがデフォルトになっており、ほとんど優生思想と区別がつかない場合も多い。
現在の優生思想は新自由主義による格差の正当化に明らかに寄与しており、新自由主義と優生思想との共犯関係を批判する必要性を強く感じます。
とりわけ、分子生物学者や遺伝学者(の一部)はみずからの「学問」の「エビデンス」を逸脱して事実上「優生思想」に踏み込んでいる場合も多く、きわめて深刻な問題だと感じます。
パヒュムのヒュチャポきく(ひさしぶり・2回め
仙台、東京と暮らしたおれの個人的な感想ですが、九州は「おおきい」
何を言っているかわからないと思いますが、町の作りというかいっこいっこの距離がひろいというか...体感1.25倍ぐらいあったです
あと建物が重厚
きのこ。しろい。くろい切株が好物