1. 道徳的な価値の尺度がなんらかの内在的性質 (苦痛を感じるかどうか、意識があるかどうかとか)
2. それをよく満たす人工的なものを考えると道徳的がすごく高いことになり、現在の人類をそれで置き換えられるなら置き換えたほうがいいことになる
3. なので、道徳的価値の源泉を内在的な性質ではなく、自分への近さと考えたほうがいい
むかしサークルで先輩で話したことの受け売りだけど、パーフィットによるほかの時点と他者との類比を使うと、すべての時点・他者が同等に価値を持つと考えることもできるけど、自分に近い時点・自分に近い(家族・友人など)他者がより大きな価値を持つと考えることのどちらも、他時点と他者とで一貫した考えだよね
かえるの目、あれだけとび出ているのに、なぜ外れておちてしまわないのか?
推薦文を書いた『家族、この不条理な脚本』(キム・ジへ著、大月書店2024年)の刊行記念イベントに登壇します。
対談のお相手は、同じく推薦文を書いた太田啓子さん(弁護士)です。いったん「家族」になってしまうと、離れられない謎の仕組み。社会規範だけでなく、法制度も、経済システムも、とくに女性を「家族」に縛るように機能してしまいます。
その一方で、「家族」をつくることを妨げられてきた集団もいる。結婚ができない(戸籍上)同性のカップル。障害を理由として生殖能力を奪うことを正当化してきた優生思想(や優生保護法)。家族形成を承認されないトランスジェンダーの親たち、そして性別承認法(性同一性障害特例法)の不妊化要件や手術要件。
対談では、キム・ジヘさんの新著の内容をベースにしながら、社会の差別の縮図としての、「家族という脚本」について、話していければと思います。
https://bookandbeer.com/event/bb240812a_ootatakai/
「68年5月、サルトル、ゴダール」
1958年にクーデターで政権を掌握したド・ゴールは1962年にエヴェイアン協定でアルジェリアの独立を認めます。ただし、アルジェリア領内での核実験場所の確保など、さまざまな条件をつける。
国内ではテクノクラート主導の経済成長を採用するも、クーデターから10年後の1968年5月、パリ大学ナンテール校(私は2002-2004客員研究員だった)から火の手が上がった学生運動がパリのカルチェラタンに飛び火、これにCGTを始めとする労働組合が呼応して「ゼネスト」に入ることで、首都パリは「権力の空白」状態へ。
ド・ゴールは一時国外に出て、軍の支持を確保して後、帰国。秩序を概ね回復した後、「信任選挙」に打って出て何とか勝利するが、69年に辞任。
言説界では、当時「構造主義」が一世を風靡していたが、五月革命では「構造はデモをしない」というグラフィティが溢れる。
サルトルはこの際、学生叛乱を断固支持。すでにノルマルに勤務していたデリダもビラの編集作業など「慣れない」仕事をした。
またF.トリフォー、G=L.ゴダールなどサルトルに私淑する映画監督も運動に参加。
写真上はビラを配るサルトル、後ろの女性がボーヴォワール。下はゴダール、サルトル、ボーヴォワールである。
きのこ。しろい。くろい切株が好物