「68年5月、サルトル、ゴダール」
1958年にクーデターで政権を掌握したド・ゴールは1962年にエヴェイアン協定でアルジェリアの独立を認めます。ただし、アルジェリア領内での核実験場所の確保など、さまざまな条件をつける。
国内ではテクノクラート主導の経済成長を採用するも、クーデターから10年後の1968年5月、パリ大学ナンテール校(私は2002-2004客員研究員だった)から火の手が上がった学生運動がパリのカルチェラタンに飛び火、これにCGTを始めとする労働組合が呼応して「ゼネスト」に入ることで、首都パリは「権力の空白」状態へ。
ド・ゴールは一時国外に出て、軍の支持を確保して後、帰国。秩序を概ね回復した後、「信任選挙」に打って出て何とか勝利するが、69年に辞任。
言説界では、当時「構造主義」が一世を風靡していたが、五月革命では「構造はデモをしない」というグラフィティが溢れる。
サルトルはこの際、学生叛乱を断固支持。すでにノルマルに勤務していたデリダもビラの編集作業など「慣れない」仕事をした。
またF.トリフォー、G=L.ゴダールなどサルトルに私淑する映画監督も運動に参加。
写真上はビラを配るサルトル、後ろの女性がボーヴォワール。下はゴダール、サルトル、ボーヴォワールである。
写真上、ボーヴォワールの後ろがF.トリフォーである。
トリフォーはサルトルの自伝映画を撮る予定だったが、結局予算とサルトルの死で間に合わなかった。