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グレートあさり さんがブースト

傷ついた者が沈黙していれば「深く傷ついた」で、沈黙とは逆に沢山言葉を発し続けていれば「その程度」と決めつけるの、本当にやめて。その決めつけだって二次加害になる。やめて。
暴力を受けた(傷つけられた)者がする行動が全員同じなわけないでしょ。苦しい状態をやり過ごす手段は各々違う。表面だけで決めつけないで。

グレートあさり さんがブースト

同性愛者から文脈が拡大していった現在のクィアという概念を、わたしはとくにジェンダー・セクシュアリティの領域において規範から排除・疎外される者たちの総称として理解しているし、たとえばAce/Aroのスペクトラムのなかにはそのように考えなければ覆い隠されてしまうものがあり、正直なところ、セクシュアリティを「指向」と「嗜好」に分けることがどれほど有効なのかは疑問に付されるべきだと思います。

わたしもどうせどっかではめちゃくちゃ言われたりしてんだろうなあ。そういうの結構気にする。そんなの気にしないふうな顔してるけど。顔の画像は載せたことないけど。

だって“内心に留まる限り差別されることはありえない”とか見てしまったら色々崩れ落ちてくるものがあるよね。そも別に大きな期待のようなものもなかったけれど、そんなこと言うってそれほんとにほんと?みたいなね。
あとペドフィリアに限ったことではないけど、よくそんな感じでベラベラ適当な仕方で話せるもんよね。専門家よろしくみたいな。それが全然違うどころか暴力にさえなってるっているのに。それを批判していたら今度は“擁護”とかいう言葉にすり替えてねじ曲げているし。“擁護”ってことはじゃあ敵認定してるってことじゃないかって少しは考えろよって思う。

『福田村事件』て映画の存在の複雑さというのは、よく批判される殺された日本人もいたという語りでしか表現できないのかというところと、それにはわたしも賛同しつつじゃあ部落差別について考えるということは放棄する、あるいは矮小化されることにも無関心をきめこむつもりなんですねという、ハッキリ言ってそうとしか見えない態度があることによる傷つき、そもそもその原因も宣伝の過程などで特にその部分にフォーカスせずにしてきたのが多数あったという問題もある。
しかしじゃあ観たとしてどうかというと多分十中八九新たなムーブメントなど起こらないだろうし、たぶんみんな“悲しい出来事があったのだ”で終わるいつものあれなんだろうという悲壮が雑然と積み重なってある。ブルーにこんがらがっている。

部落解放運動の特に水平運動の原点としての米騒動という語りの歴史もまた長いけれど、その後の朝鮮人虐殺に直接繋がるものとしても捉える必要があるよね。

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米騒動は完全に部落民をスケープゴートにして、挙句は“鎮圧”のためなら死刑を使ってまでその権力を見せつけたからねこの国は。

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「米騒動のとき、内務省は暴動対策として、被差別部落民などを仮想敵とし、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中核とする自警組織をつくらせるよう、行政指導をおこなっている。…大震災時の自警団はその大規模な再版であり、治安当局の強力なバックアップを受けて成立したと考えることができる」(大江志乃夫『戒厳令』128)

引き受ける引き受けないみたいな言い方とか話になんでなってんのって感じだけど、そこまでのこと言ってもなお自分が何言ってるのかわからないもんなのか。

Apple Musicはサニー・ボーイ・ウィリアムスンのⅠ とⅡなんでごっちゃにしてんだ💢別人だぞそのふたり。

そういうことで、わたしは部落民であるがそれを定義したりも誰がそうであるなしを決めたりもする権利はないしそうしたいとそもそも思わない。それが故にじゃあこれならあれならと鳥取ループみたいなのが現れてそこへ付け込んでヘイトをばら撒くということが起こっているんだけど、あくまでわたしはそのつけ込まれる“隙間”のようなものを無くしてしまうことの方が恐ろしいことのような気がする。そこを無くすことは排除が始まるということだから。

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誰かを何かの枠組みに入れる入れない、或いはそもそもその定義って話は部落問題でも昔からあるってなんか思った。
例えば行政的な施策の話になる場合、どうしても定義したり入れる入れないの範囲の話になってしまうという葛藤の歴史があって、だから属地主義なり属人主義なり一応なんらかの枠を作ってやるしかなかった。それが現代的な意味での行政用語としての同和地区なりの“同和問題”。
そして個人的に“同和”という言葉は使用しないと決めているんだけど、その定義とか範囲から溢れてしまった人たち、つまり地区指定されてない部落の人とか或いはムラに住んではいないがルーツがあるという部落の人を排してしまっている現状があるから。つまりアイデンティティとしての部落民という捉え方をわたしはしたいと思っているからなのよ。

『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』が番組内でもおすすめ書籍として紹介されていて嬉しかった。

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宇多丸氏は今年も朝鮮人虐殺等について言及していたけども、今度の小池百合子批判はより踏み込んでいた印象。歴史歪曲している人物に投票することになるんだぜってハッキリ言ってて、これは多分セッションなどのような番組にはできなかった役割でしょうね。

ちくま文庫『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』もおすすめしたい。

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「普段から密な相互理解、意思疎通があれば、デマの蔓延も抑えられた」? 何を言ってるんだこいつは的な。その前に植民地主義的支配/被支配の問題だろがよ x.com/issuikai_jp/status/16972

もはや不信感しかない。きのうまで言ってたことはなんだったんだって次元じゃないくらい排除排除排除しかやってない。よくもまあとか糺弾する気力もない。

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美談や善意を語るには、それが美談や善意となる前提である惨事を認識したうえでなされなくてはならないように思っている。
惨事が語られず、美談や善意が語られてしまうと本来認識すべきものがぼやけてしまうような気がする。
なので、私は、現時点で美談や善意は積極的に紹介する気になれない。

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関東大震災時に朝鮮人をかくまった大川常吉鶴見警察署長のエピソードを強調したくなる気持ちはわからんでもないが、藤岡信勝・自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史』(産経新聞ニュースサービス、1996年)にも「勇気と友情の物語」章に登場するのはなんでかなと考えたほうがいいのでは。「国民の物語」的美談として称揚されることで、官憲の煽動・誘導に端を発する自警団の朝鮮人・中国人虐殺が後景化されるなら本末転倒ではないか。

神奈川新聞の記事では「当時の日本人にとって、朝鮮人は植民地からやってきた「二等国民」だった。日本人と同等に扱うべき存在と考えることができたのは、少数だった。警察官が住民を守るという当たり前のことが美談としてたたえられる社会状況。その異常さにこそ、目を向けなければならないはずだ。大川署長は、その背後にある虐殺という歴史の暗部を照らし出す存在でもあるのだ。」と釘をさしている。kanaloco.jp/news/social/entry-

グレートあさり さんがブースト

ハッシュタグのせいで「荒れる」のではなく、ハッシュタグでの主張をする前から「波風たてるな」「出てくるな」「抑圧されていろ」という排除が続いてるということでしょ。トランス差別に反対というハッシュタグでだって差別をする者(無自覚であっても)が嫌というほど溢れて酷いことになったのと何が違うの。

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