『福田村事件』て映画の存在の複雑さというのは、よく批判される殺された日本人もいたという語りでしか表現できないのかというところと、それにはわたしも賛同しつつじゃあ部落差別について考えるということは放棄する、あるいは矮小化されることにも無関心をきめこむつもりなんですねという、ハッキリ言ってそうとしか見えない態度があることによる傷つき、そもそもその原因も宣伝の過程などで特にその部分にフォーカスせずにしてきたのが多数あったという問題もある。
しかしじゃあ観たとしてどうかというと多分十中八九新たなムーブメントなど起こらないだろうし、たぶんみんな“悲しい出来事があったのだ”で終わるいつものあれなんだろうという悲壮が雑然と積み重なってある。ブルーにこんがらがっている。
米騒動は完全に部落民をスケープゴートにして、挙句は“鎮圧”のためなら死刑を使ってまでその権力を見せつけたからねこの国は。
「米騒動のとき、内務省は暴動対策として、被差別部落民などを仮想敵とし、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中核とする自警組織をつくらせるよう、行政指導をおこなっている。…大震災時の自警団はその大規模な再版であり、治安当局の強力なバックアップを受けて成立したと考えることができる」(大江志乃夫『戒厳令』128)
誰かを何かの枠組みに入れる入れない、或いはそもそもその定義って話は部落問題でも昔からあるってなんか思った。
例えば行政的な施策の話になる場合、どうしても定義したり入れる入れないの範囲の話になってしまうという葛藤の歴史があって、だから属地主義なり属人主義なり一応なんらかの枠を作ってやるしかなかった。それが現代的な意味での行政用語としての同和地区なりの“同和問題”。
そして個人的に“同和”という言葉は使用しないと決めているんだけど、その定義とか範囲から溢れてしまった人たち、つまり地区指定されてない部落の人とか或いはムラに住んではいないがルーツがあるという部落の人を排してしまっている現状があるから。つまりアイデンティティとしての部落民という捉え方をわたしはしたいと思っているからなのよ。
宇多丸氏は今年も朝鮮人虐殺等について言及していたけども、今度の小池百合子批判はより踏み込んでいた印象。歴史歪曲している人物に投票することになるんだぜってハッキリ言ってて、これは多分セッションなどのような番組にはできなかった役割でしょうね。
「普段から密な相互理解、意思疎通があれば、デマの蔓延も抑えられた」? 何を言ってるんだこいつは的な。その前に植民地主義的支配/被支配の問題だろがよ https://x.com/issuikai_jp/status/1697227803018871005?s=46&t=HNHeIFnxWbmatWKCKLkGjw
関東大震災時に朝鮮人をかくまった大川常吉鶴見警察署長のエピソードを強調したくなる気持ちはわからんでもないが、藤岡信勝・自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史』(産経新聞ニュースサービス、1996年)にも「勇気と友情の物語」章に登場するのはなんでかなと考えたほうがいいのでは。「国民の物語」的美談として称揚されることで、官憲の煽動・誘導に端を発する自警団の朝鮮人・中国人虐殺が後景化されるなら本末転倒ではないか。
神奈川新聞の記事では「当時の日本人にとって、朝鮮人は植民地からやってきた「二等国民」だった。日本人と同等に扱うべき存在と考えることができたのは、少数だった。警察官が住民を守るという当たり前のことが美談としてたたえられる社会状況。その異常さにこそ、目を向けなければならないはずだ。大川署長は、その背後にある虐殺という歴史の暗部を照らし出す存在でもあるのだ。」と釘をさしている。https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-41781.html
ハッシュタグのせいで「荒れる」のではなく、ハッシュタグでの主張をする前から「波風たてるな」「出てくるな」「抑圧されていろ」という排除が続いてるということでしょ。トランス差別に反対というハッシュタグでだって差別をする者(無自覚であっても)が嫌というほど溢れて酷いことになったのと何が違うの。
あさり/ザ・グレーテスト