誰かを何かの枠組みに入れる入れない、或いはそもそもその定義って話は部落問題でも昔からあるってなんか思った。例えば行政的な施策の話になる場合、どうしても定義したり入れる入れないの範囲の話になってしまうという葛藤の歴史があって、だから属地主義なり属人主義なり一応なんらかの枠を作ってやるしかなかった。それが現代的な意味での行政用語としての同和地区なりの“同和問題”。そして個人的に“同和”という言葉は使用しないと決めているんだけど、その定義とか範囲から溢れてしまった人たち、つまり地区指定されてない部落の人とか或いはムラに住んではいないがルーツがあるという部落の人を排してしまっている現状があるから。つまりアイデンティティとしての部落民という捉え方をわたしはしたいと思っているからなのよ。
そういうことで、わたしは部落民であるがそれを定義したりも誰がそうであるなしを決めたりもする権利はないしそうしたいとそもそも思わない。それが故にじゃあこれならあれならと鳥取ループみたいなのが現れてそこへ付け込んでヘイトをばら撒くということが起こっているんだけど、あくまでわたしはそのつけ込まれる“隙間”のようなものを無くしてしまうことの方が恐ろしいことのような気がする。そこを無くすことは排除が始まるということだから。
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