「現代詩手帖」2023年3月号に「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」という題でクリティークを寄稿しています。
瀬戸夏子さんの批評への批判的言及を起点に、「女」をはじめ、フェミニズムの主体をなんらかのアイデンティティによって規定することがいかに排除や疎外に結びつくのか、あるいは、わたしたちが排除や疎外を避けて連帯するためにどのような目的に向かうべきなのか、について書きました。
サラ・アーメッドの「ハンマーの共鳴性」をそのような連帯に向けたあり方のヒントをくれるものとして扱ってもいます。
批判的言及をした瀬戸さん含め、多くの先立つフェミニストたちの胸を借りて、あるいは周囲のクィアなフェミニストたちとの会話から自分のなかに蓄積されたものを通じて書かれた文章です。願わくは多くの人に届きますように。
どうぞよろしくお願いします!
http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/
一昨日から今日まで研究交流会があって、琵琶湖近辺にいました。そこで去年の5月に書いた「破れ目に賭けられた共存——長谷川白紙の詞におけるクィアネス」のリライトを中心に発表をして、それはクィア批評の根幹の否定では……と思うコメントもあった一方でそれ以上にうれしいコメントをほかの参加者の人たちからもらえてうれしかったです。(長谷川白紙がSophieやArcaと戦略を共有しているということ、長谷川白紙の曲を発表きっかけで聞いてライブに行きたくなった、正面切ったクィア批評の発表があることがうれしい、などでした!)
修論の諮問などで非二元的なジェンダーの不可視化を強く前提とするような質問を受けることが多かったので、受け取ってもらえるか不安な部分もあったのですが発表をして本当によかった。クィア批評、博論と並行して書き続けたいです。
( ˘̥̥̥̥̥ ᵕ ˘̥̥̥̥̥ )
権威に対して反論や異議申し立てをする人は、権威である人よりもよほど発言を聞き入れてもらいにくいから、誤読や誤解をできるだけ避けるために、逐一もとの文章を検討してまとまった文書で批判をすることが正面からの批判ではないのであれば、何が正面からの批判になりうるんですか??ほんとに教えてほしい
起きてるみんな~!
ZINE『a.n.: a ZINE by anarchist_neko』公開です
これで最後にしますが、フェミニズムの担い手のアイデンティティなりポジションは「女性」であるべきだとは私は一度も言っていないですし、フェミニズムに関わる全ての人を女性というひとつのカテゴリーに投げ込んで包摂するべきとも言っていません(包括とか包摂とかの言葉遣いがどこから出てきたのかわかりませんが、私は使っていないと思います)。そうではないよねということは最初のスレッドですでに書いています。 https://ohai.social/@akishmz/109829224764476845
ひとつのラベルのもとで同質性を担保することで連帯が可能になるというような、私が一度も言っていないというかむしろこの数年に渡ってそれは違いますよと書き続けてきたことを、私が言ったように書くのはやめて欲しいと思っています。
ただそれとは別に、自分の考えていたことを「フェミニズムの主体」という言葉で表現したのは用語の選択が適切ではなかったし、それに気がつかせてくれた方達には感謝しています。 [参照]
わたしもこれで最後にしますが、非常に多様な「女」というカテゴリーのどこか/どれかに掠った人がフェミニズムの主体になる、という表現はその反面として、フェミニズムの主体になる人は(それがいかに開かれたものとして想定されていたとしても)「女」のカテゴリーと重なる部分を持つということを意味するのではないでしょうか。それは結果として「女」のカテゴリーに入れられることを望んでいない人まで巻き込んでしまいうる/そのような人たちの排除につながりうるとわたしはどうしても考えてしまうのですが……。(そのような増殖的な取り込みのイメージから包括や包摂という語が念頭に置かれたわけですが……)
いまわたしがなんとなく考えていることは、主張の両側でバトラーが参照されつつも、もとのスレッドで引用されていた部分の直後の部分である
>おそらく逆説的なことだが、「女」という主体がどこにも前提とされない場合にのみ、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるだろう。(竹村訳26頁)
の部分の解釈が異なり、それが考え方の違いになっているのかもしれない、ということです。
バトラー、文芸 │ nonbinary(they/them)・asexual│ 文芸同人誌「花と青」 https://researchmap.jp/aomoto-yuzuki