わたしもこれで最後にしますが、非常に多様な「女」というカテゴリーのどこか/どれかに掠った人がフェミニズムの主体になる、という表現はその反面として、フェミニズムの主体になる人は(それがいかに開かれたものとして想定されていたとしても)「女」のカテゴリーと重なる部分を持つということを意味するのではないでしょうか。それは結果として「女」のカテゴリーに入れられることを望んでいない人まで巻き込んでしまいうる/そのような人たちの排除につながりうるとわたしはどうしても考えてしまうのですが……。(そのような増殖的な取り込みのイメージから包括や包摂という語が念頭に置かれたわけですが……)

いまわたしがなんとなく考えていることは、主張の両側でバトラーが参照されつつも、もとのスレッドで引用されていた部分の直後の部分である

>おそらく逆説的なことだが、「女」という主体がどこにも前提とされない場合にのみ、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるだろう。(竹村訳26頁)

の部分の解釈が異なり、それが考え方の違いになっているのかもしれない、ということです。

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それでいうと、フェミニズムの主体として「女」という統一されたアイデンティティを想定すべきではない、ということとフェミニズムの主体は女性だけではない、というのは主張として重なるところがありつつも、それぞれ語れることがまったく変わる表現だと思いますが……。

最後になってない、でもこれで終わりということで……。

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