ドイツ東部の州議会選、右翼政党が初の第1党に ショルツ政権に打撃
https://www.asahi.com/articles/ASS917KPTS91UHBI01KM.html
極右と書けない理由は何だろな?
「過激な右翼主義」だってさ。それを支局長が書いてるというね…。
大統領引退してから本屋さんやってるムンジェイン、超かっけーよな
https://www.instagram.com/p/C9EjPLphgWP/?igsh=MW9zcm1rYTk4ZXRmNA==
ムンジェインはひたすら公正やっただけで、演説とかでも一度も日本を糾弾すること言ってないのに(河野が大使に居丈高に接してたのとか糾弾してもいいくらいやのに)朝日新聞や東京新聞までムンジェインにケチつけてたのほんま忘れられん、何様なんこいつらってなったわ
「進次郎が憲法を読んでいるとは思えない。おそらく中学生レベルの前文暗記もしていない」
小泉進次郎「改憲」突然ブチ上げに困惑広がる…SNS《中学生レベルの前文暗記もしていないと思う》と冷ややか https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/359933
戦争は自然災害と違って、突然やってくるものではない
だからこそ、為政者がその準備を始めたらどんなに小さなことでも気づけるようになること、声をあげていくことが重要
冷笑して楽観視しているだけでは取り返しのつかないことになってしまうのだから
「戦える国」へ加速した岸田政権の3年 外交では日韓関係改善 「抜け穴」残した裏金事件の法改正
https://www.tokyo-np.co.jp/article/347539
李承晩の前から「独裁」消した韓国の新しい歴史教科書…「歪曲された授業を懸念」
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/50989.html
ここでも繰り返し批判している山口二郎氏が「立憲民主党の代表選挙について、リベラル派市民が野田さんを嫌悪する事情も分かるけど、今の日本でリベラル派は少数でしかないことを理解すべき。そのうえで、政権交代を起こすために中道保守と提携するか、尖ったことを言い続けるリベラルでいたいかを選択すべき」と言っている。
これぞ「ザ・エキセン」という所だろう。その意味ではご本人「尖ってはいる」。
そもそも山口二郎は小選挙区制の「改革派」論客として旗を振ったわけだから、そもそも公論で説教できる、ということがおかしい。
それはそれとして、現在の東大・京大の政治学者は頭から「左派」を排除して思考するように訓練されているから、「リベラルは少数」という安直な結論に到達する。
実際、現在政治学で「左派」と見られるとまず大学のポストはない。
しかし、現実の政治では人口の大多数がこの30年で生活水準が大幅に低下。現在、物価上昇でついに限界に直面し、漠然としてであはあれ「世直し」願望は渦巻いている。
であるから、大企業と富裕層に負担を求める「リベラル左派」を結集できれば、むしろ「多数」になる。
これをさせまいとして永田町、マスコミ、提灯学者、メディア文化人が、何が何でもリベラルと左派を分断せんと言う所だろう。
同窓会で会った旧友たちの口から語られるのは他愛もない思い出話ばかり……奇妙な感を覚えた男は「戦時中は辛かった」と水を向けるも、旧友たちは「覚えがない」と驚き呆れるばかり。
どうやら戦争の記憶が抜け落ちているらしい。
そんなはずは、と家族に聞いても同じ反応で「戦争はなかった」と言われ愕然とする。
図書館の本にも教科書にも戦争の歴史は記述されていない。
妻から「昔のことなどどうでもいい。これからのことを考えて」と言われ、一度は納得しかけるも「数多の犠牲者をなかったことにする歴史は大切なものを取りこぼしている」と激昂する。
プラカードを掲げ、ビラを刷り、街頭で「戦争はあった」と訴えるも、男は何処かへ連行されていく。
小松左京『戦争はなかった』
歴史を省みず、あったことを見ないことの恐ろしさを訴えるこの小説は1974年初版。
それから50年、この小説が現実に近づきつつある。
今日は発酵させたエイの刺身「ホンオ」をついに食べた!その店のホンオは軽めに発酵させた初心者でも食べやすいもので、普通に食べれた。マッコリが進む。すごく美味しいとも感じなかったけど、何ヶ月か後に無性に食べたくなったりするのかもしれない。
"関東大震災当時、本庄町内のお寺には逃げてきた朝鮮人をかくまって、押し寄せてきた自警団に「やるんだったら俺をやってからにしろ」と守った住職がいたそうです。「俺を殺したら7代たたるぞ」って。そうやって身をていしてかばった人たちもいるのですね。
深谷方面からきたトラックを「危ないから」と逃がした町の人たちの話もあります。やっぱり非常時に大事なのは正常な気持ちと勇気でしょう。朝鮮人を守ったという話はあちこちにあって、「そうしなければいけない話」として、もっと取り上げられるべきだと思いますね。
私の祖父も「俺だったら絶対に、俺を殺してから行けって言った」とよく話していました。子ども心に「じいちゃん何をかっこつけているんだよ」なんて思っていましたが、そういう話を聞かされると、そうだよな、そうしなきゃいけないよなって思いますよね。いざという時の冷静さと勇気はとても大事ではないでしょうか。"
関東大震災で起きたこと 朝鮮人追悼式典を長年続ける埼玉・本庄市長が祖父母から聞いた「群集心理の怖さ」:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/351540
"…殺された人数は実ははっきりしなくて、当時の記録で八十数人、といわれています。多少前後するかもしれませんが結構大勢いたはずです。祖母が見ていますから。
―祖母はどのようなことを語っていましたか。
祖母の久枝(2018年に106歳で他界)は本庄生まれで、関東大震災のときは小学5年生でした。学校帰りに本庄警察署の前を通りかかったら群衆がたくさん集まっていて「こっちに来るんじゃない!」と言われ、翌日だったか数日後だか、菰(こも)をかぶされた遺体が大八車で中山道を運ばれていくのを見たそうです。「あんなに恐ろしいことはなかった」と聞きました。"
関東大震災で起きたこと 朝鮮人追悼式典を長年続ける埼玉・本庄市長が祖父母から聞いた「群集心理の怖さ」:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/351540
朝鮮人虐殺:親の目の前に子供たちを並べて首を切った「本庄事件」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/03/204724
>惨殺の模様は、とうてい口では言いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。
>子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちやあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た。
"―1923年、本庄市で何があったのでしょうか。
9月4日、当時の本庄警察署内に収容されていた朝鮮人が大勢の群衆に襲われ、殺されました。なぜ本庄で事件が起きたかというと、地理的な要因が影響していると思っています。
当時、東京方面から朝鮮の人たちがトラックで群馬方面に移送されてきていて、本庄はその中継点でした。埼玉から群馬に向かうには神流川を渡らなければならないのですが当時は鉄道の橋しかなく、渡しの船を使おうとしたけれど群馬側に拒否されたようです。
引き返さざるを得なくなり、一方で東京からは次々と被災した人たちが押し寄せてくる。本庄でどんどん人が膨れあがっていき、「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」などのデマも流れ、殺気立った人たちが警察署を襲ったのだと思います。
なぜ朝鮮人が警察署に収容されていたかというと、守るためだったと思うのです。ところが警察署は人が少なく多勢で無勢でした。"
関東大震災で起きたこと 朝鮮人追悼式典を長年続ける埼玉・本庄市長が祖父母から聞いた「群集心理の怖さ」:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/351540
坂東から帰洛したみやこのムジナ