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友人からは、カバーじゃないとぜんぜんウケないし、そもそもオリジナル曲をやってくれるメンバーが集まらない、特にボーカル、という話はありましたね。もっと都会とか環境が違うと状況は変わるんでしょうけど。

相方だった友人もギター、ベース、ピアノ、管楽器、ドラムを習得していましたね。

とりゅう さんがブースト

話をうかがっていると、おそらくは小説と比べて、バンドの作曲行為には参入障壁というか自然と少数派になってしまう理由があんまり可視化されていない話でもあるよな、といった感じもします。
作曲を一人で完結させる場合は、基本的にギターに習熟していないとつくれない(なぜならコード進行を理解できなければ曲構成がつくれない)うえ、他の担当楽器パート(べース、ドラム、キーボード)への理解も必要になりますし、初心者はそのあたりの視野の拡張がデカい壁になります。
じっさい多くのバンドの作曲担当はギタリストであることが多いです。コピーバンドだけしていると、べースやドラマーはあんまり作曲をしようとは思わない/できない状況があるといいますか。

二次創作においても、対象作品をそのまま自分で書き写す、ということは(非公開であってすら)普通しないわけで、そういう見方(ここではバンド活動と小説執筆から類推すること)をするとヘンに見えます。だから、その見方自体が誤っているのでは、と思えてきたんですよね。

吹奏楽部だったので「技術向上のために既存曲を練習する」というのがわかる部分もあるんですが、バンドを「組んで」「名前を名乗り」「練習して」「イベントを企画し」「人前で演奏する」けど自作ではないんだ(特に前半2つ)、という素朴な気持ちがありますね。自発的にそこまでやっているのに? という。で、これって結局「自分で作ること」をそれ以外から上位に置く発想が自分の中に染み付いているってことで、よくないな〜と思った、という話です。

自分自身がそうなので、「〇〇の鑑賞が好き」と「自分でも〇〇を作る」の直結を無意識に自明視しており、その感覚は容易にクリエイター至上主義的なものに繋がってしまうので、あるいは既に繋がっているので、改めないとな、と思いました。(日記)

これ、物凄い数の人間を敵に回す発言なのですが、カバー曲だけを演奏しているのに「バンドをやっている」と言っていいの? という感覚が、友人の自作曲に歌詞を付けていた中学生くらいから抜けていないんですよね。これって自分が小説の書き手で、そこと比較して音楽演奏を捉える、という誤った類推をしているからなんでしょうが。
小説には基本的に「カバー」すなわち「既存の作品を演奏する」に相当する行為はなく、書き写しとかがそれに該当するとしても、初心者がそこから始めることはけっこう想定しづらい。どんなにビギナーでも、バンドでいうところのオリジナル曲から創作行為をはじめる。言い換えれば、小説では「表現行為」と「創作行為」がほぼ一致する。あるいは、小説における「創作行為」のハードルを低く設定してしまっている? ここらへんを無視した類推をしてしまっている気がします。

『ふつうの軽音部』最新話を読み、4巻を読み、Spotifyの登場楽曲プレイリストを聴いて、良くなってきました。

ウルトラ格好いいバトル漫画の隅の1コマ2コマで(ラブ)コメディをやっているから良いのであって、全編それで通してしまうと、今読むとアカンものが出てきそうな感じはまぁ否めないですよね。

『BLEACH』アニメ最新話を観たので「」の札を掲げています。でもパンチラがどうとかやるなら別にやんなくていいです。

『レッド・ワン』は、どうやって企画通したんだよと思うくらいおそろしく凡庸なアイデアが核なのだが、そこから出発してからの細部はよく練られていてたいへん偉く(サンタの弟のモンスターパーティーとかすげえ良かったよ)、とはいえ核はどうやって企画通したんだよ……と思うくらい凡庸なままなので、非常にいびつでビックリしました。

『レッド・ワン』は「サンタクロースが実在して本当に一晩で世界中にプレゼントを届けていたら?」という誰でも100回くらい考えつくアイデアを本気で実現した映画で、まぁたしかに実現できていて凄いのだが、とはいえ本気で実現するほどのアイデアなのかこれは? という気持ちがずっと拭えなくはありました。当のサンタクロースによるプレゼント配りのシーンが素直に格好よかったので(ちょと涙ぐんだ)、結果的にはこれでよかったのかもしんない! と思いました。

シリーズ中の一作かつシリーズ最高傑作、という立ち位置であるためプロットが高度化しており、分析が手に負えなかったというのもあるので、単話完結かシリーズ一作目のスパイアクション映画を選べばいいのかもしれない。すぐ思いつくのだと『アトミック・ブロンド』とか『コードネーム U.N.C.L.E.』あたりかな。

今週の課題意識(引用らへんのやつ)を深く考えるために、『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』を分析しようと思って見返したのですが、ふつうに夢中になり、アクション映画として最上級ってことしかわからなかったです。危機と解決、次の危機、現時点でのまとめ、次の目標立案、危機と解決……の呼吸が完璧すぎる。
QT: fedibird.com/@abe_dragonslay/1
[参照]

とりゅう  
「(主人公が)頑張る→すごく頑張る→すっごくすっごく頑張る→どうにもならねえわ!→ここで「偶然にも」解決策が現れる→それを掴んで解決する」という展開は死ぬほどあり、かつ同じ作品の中で何回やっても良いんだけど、「頑張る」の下りが抜けると一瞬で「ご都合主義」と呼ばれてしまう、ということなんでしょう...

おれがお気に入りのMPの例示はこれです。
『タイタニック(1997年)』においては、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが車の中で初めて結ばれ、二人がデッキにいるときに船が氷山に衝突する――この一連のシーンがMPに当たる。
つまり、「豪華客船上でのラブロマンス映画」から「沈没する豪華客船上でのパニック映画」に切り替わるところ。

三幕構成って本来的には「分析手法」なので、見つけ出そうと思っていればいくらでも見つけ出せる節はありますが。

MPは見つけるのが簡単なので重要な感じがするんですが、べつにそういうことはなく、実際、相当するものが全くない作品も結構ありますね。

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第一幕・第二幕のラストにおかれる2つのPP(プロットポイント)と、第二幕の中間におかれるMP(ミッドポイント)の違いが曖昧だったんですが、PPは物語のテーマに関わる本質的な転換であって、物語進行上の大きな出来事となるMPとは違うんですね。

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・ルックバックのPP①は京本との出逢いによって藤野が自分を「描く」ひとなんだと自覚するところ。そこらから「描く」という本作のメインテーマが前傾化する。
・劇中最大のショックとなる通り魔事件がMP。だから、衝撃的ではあるけどテーマに直結はしてはいない。
・その少しあと、藤野が京本の自宅の部屋の前で「描かなければよかった」と思うシーンこそが作中テーマを揺るがすPP②になっている(PP①の対照にもなってる)。
・だから第三幕を経ることで、藤野がふたたび「描く」ことには意味があったのだと思い直すラストに至り、テーマへの答えが示される。

第一幕のインサイティング・インシデント(藤野が京本の絵に驚愕する)、キイ・インシデント(京本にファンだと告げられ漫画家を目指してると言っていまう)も完璧だし、これ脚本術の教科書じゃないすか……!?

観客は実際には「解決」よりも「頑張り」を観に来ているのだが、帰宅時には「解決」のことを記憶して帰る、ということなのかも。

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