嫌韓本が事前の差し止めになったケースは聞いたことがない。世に出たから日本人の危険性が顕になったという効果はある。コイツらまた近隣国を侵略、ジェノサイドをするという危険性である。
ほうぼうで書いてるけど憲法19、20、21、23条という最終的には自らの国家に対する統治権を失わせる効果があるのが今回の対KADOKAWA私的検閲の問題。
この国は本当に終わるよ。
いったん出版して回収になるなら図書館に入るなど人の目に触れることが可能だけど、事前抑制となるとその表現物を誰も見ることができなくなり我々のものを考える能力(自己研鑽力)が低下して社会も低下して、権力に入り込まれて市民生活及び民主主義は終わるんだよ。
あの出版社だから、とかそんな話じゃない。
表現物は人の目に触れて評価をされて初めて表現物となるのである。頭の中で考えるのはいいけど表出させてはいけません、これは内心の自由とは言わない。内心の自由とは外的行為を伴って初めて内心の自由たりえるのである。だから自己抑制による沈黙を引き起こし社会が萎縮するようなことはしてはならないのだ。考えが不穏だから表に出すと人に迷惑がかかるとして密かな楽しみにするのとはまた違う。
事前の差し止めという戦後最大の検閲事件だと私は何度でも言う。
これは流石に驚いたな。底が抜けたな、完全に総崩れだ。この光景、しっかりと目に焼けつけておく。そしてこの局面で、誰が、何を言っていたのか、しっかりと記録しておくことだ/学芸ノンフィクション編集部よりお詫びとお知らせ | KADOKAWA https://www.kadokawa.co.jp/topics/10952/
余談だが、クリストファーファーガソンは、現在「若年層への性別肯定治療は科学的根拠に基づいていれば構わないが、今はその科学的根拠が見当たらない」と至極穏当なこと言っている。個人的にこの問題の落とし所は、ここだと思うんだよな。「未成年への性別肯定治療、及びその教育はリスクが大きすぎるし、科学的根拠も極めて脆弱なので行わない。タビストックの例もあるし。」しかしながら、こんな穏当な提案を議論しようとするだけでも差別者扱いされるのが今の日本であり、そしてそれを尖兵として率先して行ったのが左派リベラルを自認する物書きや編集者だった、とわかったのが2023年12月5日の今日という日であった。
因みにイリバーシブル・ダメージは2年前に読んでいる。あの仮説をどうとるか、でこの本の評価は決まるんだろうけど、ただその評価もいろいろ複雑で、例えば左派の心理学者クリストファーファーガソンは、出版当時否定的な書評を書いてたけど、その後、あの当時は下手に肯定すると失職の恐れがあったので、踏み込んだ評価ができなかったと反省しているように、それほどまでに左派側からの圧が強かったことは頭の片隅に入れておくことをお勧めしたい
個人的にはその後に出たザカリーエリオットのbinary、そしてタビストックスキャンダルを抉ったTime to thinkと読み繋いでから、再びイリバーシブル・ダメージを読み返すと、初読時とはちょっと印象は変わったかな、良い意味で。まあぶっちゃければシュライアは好きではないですよ、昔から。平素の意見もかなり違う。特にイスラエルへのスタンスに関しては真逆ですし。ただこの本では、当事者の声をよく拾ってるし、アメリカ国内の草の根で起きてることがかなり掴めるから、ここにきてデトランスした人たちからの訴訟が多発していた理由もよくわかる。決して読んで損はない本です。
当時、編集部にいたゴリゴリの左翼の人たちのウケは悪かったけど、結局20代後半の時の考えと今の自分の考えに大きな変化はない。で、実際、今の日本は懸念していた通りの世の中の空気になっているわけだが、ゴリゴリ左翼の言動は、あの時と全く変わっていないわけである。自分の正義に揺るぎないのは結構だが、自分の正義が他人の不正義になることもある、という疑念がない人の正義ほど怖いものはない。なぜならそこには多数の人が納得できる理屈も、科学的な根拠もないからである。異論の全てを反動で片付けるか、外部化して切断処理して得られるものは自己満足と自己陶酔でしかない。そこで置き去りにされているのはなんなのか?そこを問いたい
レンタルビデオ屋やってた時の話。弱小業界紙に「街のレンタルビデオ屋さんのおすすめ!」みたいな不定期連載コーナーを持ってたこともあったり、当時東映ビデオの営業のお手伝いみたいなこともしていたりして、少しだけ業界の人たちと交流あった時期のこと。伊藤俊也が津川雅彦主演で「プライド」というどうしようもない映画を作った時がちょうどその頃で、事前に内容を知った人たち中心にして上映禁止、反対運動が起きて、我々レンタルビデオ業界にも賛同求める声が来たんだけど、俺は当時の連載で、その動きに反対の意志を表明した。
プライドがどうしょうもない映画なのは薄々わかるが、見なければ評価は出来ない。そしてこうしたことを認めると、いつか真逆のことが起きることを容認することになる。今は反戦、政府批判の映画は作者の強い思いとスポンサーがいてくれさえすれば容易に作れるけども(当時はまだそういう空気だったんです)、いつの日か社会状況が悪化してプライドみたいな映画ばかりになった時、これが前例となり反戦、政府批判映画がいの一番に潰されることになる。それは戦前、戦中の日本エンタメ界を見れば瞭然ではないか。悪き前例は作らないこと。そしてできあがった作品を容赦無く批判すること。今求められているのはそれではないのか?と書いたわけである
ちゃんと能川のやってることを見てきたよ。
私は自分自身を天才だと思います。
https://x.com/petrol0110/status/1731648693890429032?s=20
驚いたぜ。
脱人間中心主義が人文学の課題だってよ。初めて聞いたわ、そんな話。人間の中にいまだに女が入ってない男根中心主義からの脱却ならわかるけどな。
ヴィーガンマルキストの田上が聞いたら激怒すんじゃねーの?大橋洋一よ。
活字と映画の海に漕ぎだそうではないか。
@Petrol0110 で何やら小難しい話をしている。