以下本文引用――“ドイツ人をこんな風には殺せなかっただろう、人間だからな。俺たちは――何だと思う?黄身だよ”“僕は(諜報活動を)母のためにやったんだ”“日本のために働いていた”――引用ここまで。()内は私の補足。
この黄色人種への差別の様子、差別される側の心の機微を1947年に鮮明に描いている点が私が唸ったところだ。
自分はサトウ(=友)がいるならヒロシマに原爆は落とさないと言う主人公に、自分一人が見知らぬ二十五万人より重要なのか?とサトウが反論するところも、この面会後の主人公とアメリカ軍大佐との会話もすごい。
ヨーロッパに生まれ暮らす(大戦の最中に!)レムが、遠い東洋の負けた、ろくでもないとされていた国の人間に対して、戦後すぐにこうした描き方ができる。想像力が人間にとって重要であり、強力な力であることを感じる。
一番の目的だった『ヒロシマの男』を読む。著したのが1947年。よくこの時期にこれだけの描写を、と思う。巻末の解説には、アメリカの厳しい情報統制の中、同じアメリカのジャーナリストが被爆者へのインタビューを元にしたルポルタージュを1946年に発表しておりレムもそれを読んだだろう、とある。街の惨状のリアルさはそれ故と。
訳者の一人は、現実には見ることがかなわない爆発の瞬間の光景をSF的想像力で描写している点を評価しているが、私が唸ったのは主人公の友人でありスパイ仲間のサトウ・ウィットンの言葉だ。
日本に派遣された彼はヒロシマで被爆する。彼が“ヒロシマの男”だ。イギリスの父と日本人の母のハーフだが、主人公は彼をイギリス人だと言っていた。奥底に隠された東洋的精神性を感じながらも。
しかし大阪の病院で死を待つサトウはイギリスに帰ろうという主人公に言うのだ。ここが自分の家だと。アメリカの学者が歴史ある都市を滅ぼした。そして新しい時代が来たという。すごいスクランブルエッグを作っちまったと言う奴もいた。