Detroit: Become Humanのストーリーについて
考察を読んだ後、他のルートのストーリーも気になって、違う実況者の動画を見始めてしまった😅
ネタバレになるけど、逃避行する一行の女の子もアンドロイドというのは、アンドロイドとヒトの見分けが付かないということを印象づけたかったのかもしれないけれど、結果的に、ヒトとアンドロイドの間で深く心を通わせる可能性という例が失われ、画家とお手伝いさんの間の信頼関係止まりになってしまった。アンドロイドのデモにヒトが参加しなかったのも含めて、ヒトとアンドロイドの関係性を考える上では重要なエピソードだったと思うのだけどなぁ。
ただ、この辺も、日本の鉄腕アトムやドラえもんのようなロボットに親しんできた日本人と、他国とで感覚が違うのかもしれない。
Detroit: Become Humanのストーリーについて
そうか、もう一つの不思議な感覚の原因は、未来の話で、過去の黒人差別やユダヤ人迫害の歴史を知っているはずで、似たような状況に追いやられているにも関わらず、また、アンドロイドなら、ヒトのように過去の歴史を忘れ繰り返し同じ過ちをするなどということはしないはずなのに、歴史を振り返らないからか。
ということは、やはり、アンドロイドをテーマにしつつも、支配者側から見れば、抑圧される側はモノのような存在であった過去の差別の実態をアンドロイドという舞台装置を使ってプレイヤーの意識に乗せ、人権について改めて考えさせることこそが製作者の意図だったのかもしれないね。
Detroit: Become Humanのストーリーについて
ただ、ヒトとその他の生物やアンドロイドに人権こそ与えないにしても、どの程度の権利を与えるべきなのかというのは、単純な話で無いことも確かだ。
実際、人権とは別物であるが、動物にも一定の権利を与えるべきと言う考えは動物福祉という形で西欧を中心に浸透してきている。
もし、この境界線であったり、どの程度の権利を認めるべきかという所に主眼をおくのであれば、アンドロイドのヒト化だけでなく、ヒトのサイボーグ化という形での技術発展を盛り込むと思われる。例えば、高精度の義肢であったり、もはや、傷害に対する補助具を超えて、新たな機能・能力を獲得するためにサイボーグ化するヒトが増え、さらには、その適用箇所が増えるにつれ、どこまで装置に置き換えてもヒトであるのかというような流れだろうか。正直言って、アンドロイドがヒト化するよりも、技術的にはサイボーグ化の方が容易だろうし、片方の技術だけが発展するというのは考えにくい。
また、サイボーグ化ではヒトと機械装置を融合させるわけだが、ヒトと他の生物種のキメラであったり、新規に作った遺伝子の導入によるソフトな装置との融合というのも当然想定される。
実際、そっちの方が喫緊の倫理的な課題ではないかな?
Detroit: Become Humanのストーリーについて
まぁ、何にせよ、哲学・倫理学の諸問題について扱う上で、良い導入・課題となるゲームだと思った。
正直、ゲームでこんなことまでできるのかという意味で、驚かされたし、それが、ちゃんと楽しめるゲームとして多くの人に支持されているというのも、すごいと思う。