古いものを表示

「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
 最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
 生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁

「人間が手をいれない自然では動植物が生物学的平衡にしたがって、生物共同体を保っている。すなわちどの種も自分の自然の敵〔天敵〕をもっているから無制限には殖えられず、だからといって遺伝資質や外的条件が一変せぬかぎりは、死にたえることもない」56頁

「生物共同体を単一性あるいはシステムとしてみてよいものだろうか? 各項はたえずたがいに滅ぼし滅ぼされあって闘っているのではあるまいか? その答えからは次のような洞察が導きだせる。各部分の不断の闘いは、ルーの表現にならえば、生物共同体であれ、生物個体であれあらゆる生物学的システムの中に存在している。…生物個体も、超個体的生物統一体も、すべて生物学的システムにおいては統一体が部分の間で相争っていることがわかる。統一体をこういうふうに考えることは、ヘラクレイトス、ニコラウス・クザヌスまでさかのぼるあの深い形而上学的洞見の反映である。すなわち世界も世界の各個物も、それ自身対立物の統一(coincidentia oppositorum)であって、たがいに反抗し闘争しながら、しかもより大きな全体を構成し保ってゆくということである。この生物学的問題から、弁神論と世界悪という永劫の問題を見る展望がひらける。これは、たがいに相争う部分が個体化する(不可分化してしまう)ことからおこるのであって、各個体に対しては滅亡を、しかしながら全体にとっては前進する実現化を意味するところの闘いである」58頁

ギヨエテ1812年の日記「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子論的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」59頁

「発生能力つまり《ポテンシャル》は、実最に正常の発生で行われるところよりも一般にはるかに大きくて、発生初期の胚はある範囲では《等ポテンシャル・システム》[等能体系]である。つまり各部分それぞれが何でもできるし、同じことができる。すなわち完全な生物体を作りだせるのである。
 さて次にその時々のポテンシャルは、何によって決まるのかという問題がおこるが、ドリーシュの設定した原理がこの疑問に答えてくれる。発生過程で、ある細胞が行うことは、発生系全体の中で細胞がその時占めている場所によって決まる。…
…発生はまえもって原基に割当てられているのではない。胚の各部分は全体との関係でしだいに一定の発生方向にきまってくるのだ。そこで発生はたとえ見かけは前成的でも、原理的には後成的である。
 これで第1案、つまり前成説か後成説かということには答が与えられた。発生は独立の原基や発生機構の作用ではなく、全体に支配されるのである」61-3頁→

(承前)「さてここで<第2の選言命題>、あれかこれかがくる。《全体》とは、胚の物質系につけ加わる要因なのか、またはこの物質系の配置に内在するものなのかということである。第1案は生気論、第2案は自然科学的な全体性説である。
 ドリーシュが、自分の実験からどんなふうにして生気論に行きついたかは、前に…説明したとおりである。このことに関連しておもしろいのは、生気論に対する認識論的・方法論的な反対ではなくて、これが経験的に打破されたことだ。
 決定が依存している《全体》とは、将来到達されるべき特有の最終産物ではないことは、多くの経験から明らかである。全体とは自己発展するシステムの総合状態であって、その時その場に応じて、具体的に示すことができる。もちろん決定がまだおこらぬかぎり等結果性(等終局性…)がなりたつのであって、始めの状態は違っていても、到達した結果は同じになる。けれども発生の経過は、決して《目標めざして》進むものではない。《目標めざす》とは、その目標を予見してエンテレキーが働きでもしているように、できるかぎり有意味・典型的な結果が生みだされるということである。なにがおきるか、調節が行われるかどうか、そしていつどのように行われるかは、その時の条件によって一義的に決まることだ」63-4頁

「発生の過程は《必然性の無情な勤勉さ》でおきるのであって、結果が良くても悪くても、目的に合っても合わなくても、また元来目的などにはおかまいない。エンテレキーのほうとしては典型的な結果を目ざしているのだが、使える材料が不十分なためにに[ママ]、その目標が妨げられる、などということではけっしてない。…使える道具がすくないので、エンテレキーの威力が制限されているのではなく、むしろ現象は物質系の条件によって必然的にきめられるのだ。それ自体としてはおこることが可能な過程を《留保》するということが、ドリーシュにとってはエンテレキーの主要課題であったことを思いだせば、過剰再生に関する議論はとくに決定的なものである。ドリーシュの言い分によれば、正常な発生の場合にも、調節的発生のばあいにも、留保によって過程のうちのあるものが止められてできるだけ完全な全体ができあがるようになるのであ。過剰再生体や、その他の奇形体は、エンテレキーがまるで無力なことを示している」64-5頁→

(承前)「胚の物質系につけ加わって、それが到達すべき典型的な最終生成物の形を導きだすような原理を仮定することは、いま述べたように第2の選言命題から排除しなければならない。つまり発生過程に現われてくる《全体性》は内在的なのである。胚はヴァイスマン説と生気論がともに基盤としたように、はじめから発生機構や原基の集合ではなくて、統一したシステムであることを示している。生気論ではこの統一化のための仕組みを操るものは、ただ外部のエンテレキーだけであると信じたのであった」65頁→

(承前)「さてここで<第3の選言命題>が現われる。胚の全体性を説明するのに、無生物界で知られている原理や法則性でまにあうだろうか? あるいはまた全体性とは生物に特殊なものであるか?
 第1の、物理法則性でよいという案のあらすじを、はじめて大成したのはゴルトシュミットであった。彼によると、発生の本質というのは触媒類似の化学作用が遺伝子からでてきて、胚の原形質や胚の細胞区分を分化させることである。このさい物理=化学的平衡過程にもとづいて、ちがった種類の現形質が局在して《化学的分化》によって器官形成区域が現われるようになる。基本的の[ママ]化学分化が確立しないうちは、胚は単一な物理=化学的システムである。だから調節胚ならば攪乱のあとでも平衡状態が回復され、調節がおきるのであって、エンテレキー概念など考えだすことはない。…
 発生の化学要因についても、平衡状態という仮定についても、まだとても精細に定義できるところまではきていない。けれどその後の新しい研究によってゴルトシュミットの見解の正しさが証明された」65-6頁

「発生はひどく神秘めいた過程で、物理=化学的分化とは別もののようにも思われる。…
…発生のとき物理=化学的過程がおきていることは必要ではあるが、胚の体制化や形態形成の問題はこれによっても解ききれないのである。
 胚発生の問題を物理=化学的に説明しようとする要求は、もっと一般的な見地から提出することもできる。すなわち個々の過程を具体的に説明するのではなく、物理学・化学で知られている《物質的ゲシュタルト》…の原理に還元できるという原理上の可能性だけを、望もうとするのである。ゲシュタルトとは、一定の平衡状態に達していて物質的全体性を示すシステムをいうものである。だが、ここでも特殊な難点にぶつかる」67-8頁→

(承前)「胚がほとんど未分化の細胞の状態から高度に体制化された多細胞の形に移ってゆくことは、システムが内在する原因によって、次第に高い体制段階に移ってゆくことを意味する。このような動きは、物理学的には一見、逆理のように思われる。物理学的なシステムは、自分から秩序を増してゆくわけにはいかない。むしろ第2法則はどんな物理学的閉鎖系についても、現象が秩序の程度を減少させるような方向に進むことを強要している。実際、自己分解するのに任された屍体はそのようにふるまう。だが生きた胚については、その条件は充たされてはいない。生きた胚が前提としているのは第1に、<より>高次の秩序段階へと導くべき順路として、特異的な体制が存在しているということである。第2に、胚は閉鎖系として行動はしていない。胚は秩序を高めるために、いつでもエントロピー原理によって一部分ずつ消尽されていくエネルギーを補充している。このような体制は…前成的・静止構造的にではなく、動的なものとしてのみ把握できる。エネルギー的にみれば発生とは仕事をすることで、この仕事は胚中の貯蔵物質(卵黄)の酸化によってまかなわれる」68-9頁→

(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

「完成した動物体はけっしてあれこれの形や色の眼・翅・剛毛がただ集まっただけのものではない。動物は一定の体制をもっている。その体制に対応するどんな排列[ママ]をも、遺伝子システムには見いだされない。したがって《遺伝子》ないし《遺伝原基》の概念にどんな意味があるのかということは、教科書では通常避けられていることであるけれども、根本的な疑問のたねになる。
 まったく、遺伝の分野でも有機体論の立場は欠くことのできぬものであって、遺伝学はこのところ有機体論の方向へと発展してきている。ここでもまた静的な解釈から動的な解釈へ移らねばならない。つまり、遺伝というのは遺伝原基と一定の形質とが機械的なやりかたで結びつているところの仕組みではなく、むしろ生理学的な現象であって、これに遺伝子が一定のやり方で干渉していると考える立場が必要なのである」😅 78-9頁

「形質の発現がさまざまな因子の影響を蒙るということも、遺伝現象の性格が動的である結果の一つの現われだ。…
…遺伝子として確認できるのは、ある色、ある形をした眼・翅・剛毛などの一定の形質や器官を自分の力だけでつくりだすような単位だの原基だのではなく、むしろ全体としては対応しあうゲノムの間での差異の表現である。染色体の一定の座にある巨大分子すなわち遺伝子の性質に応じて、度合はいろいろであるにもせよ、ゲノム<全体>が生物体<全体>をうみだすのである。…ゲノムは、めいめい別々に働く独立的原基の集合体とかはめこみ細工とかいうものではない。ゲノムは全体として完全な生物体をつくりだす一個体のシステムであり、このシステムの一定部分——いわゆる遺伝子たち——の性質が変わるにつれ、生物体のつくりも変わるということなのだろう」79-81頁

「すくなくともかなりな数の遺伝子の作用は《速度遺伝子》の影響をうけるが、速度遺伝子とは、一定反応連鎖の速度に影響する因子である[何だこれ😅]。…ある遺伝子が突然変異すると、その遺伝子に制御されていた反応の速度が変わり、またそれにつれて発生しつつある生物体に多少とも深刻な変化がおきる。これは《反応速度調和の原理》(ゴルトシュミット)…
 生長速度の相違が一定遺伝子の量的な相違に原因していて、この遺伝子の分量に比例するということは、しばしば証明されたり確実らしく思われたりしている。…
 遺伝子を調和した諸反応速度のシステムであると考えることは、系統発生的にも深い意義がある」81-4頁

「遺伝子とは何か?…遺伝子が線形に排列[ママ]されたものとしての染色体は《無周期性結晶》…と呼んでよい。…
…遺伝子とは大局では一致している核型のなかの小さな違いを表現したものである。遺伝子はけっして個々の器官形成のための原基ではない。…
…ゴルトシュミットによると、近年の遺伝学研究は、次のような急進的な問さえ必要になるほどの点にむかって発展している。その問とはすなわち、遺伝子を別々に存在する遺伝単位として考える立場が、まだ許されてもいいものかどうかというのである。…《遺伝子》の概念を借りて遺伝学の事実を記述はできる。しかし生長を制御するほんとうの遺伝単位は、染色体と生殖質なのである」85-8頁

「《種の起原》は進化最大の問題ではなく問題の一つにすぎぬのであるが、ダーウィンの主著の標題ではこの点がいささかぼやけてしまっている。進化についてはざっと4つの主要な問題があげられる。第1に、品種とか種とか属とかいう、ある定まった体制設計、また構造設計の内部における多様性の起源。第2に、この構造設計自体、すなわち高次な体制単位の起源。第3に、一定環境に対する生態学的適応の起源。第4に、生体内部における全体としての形態学・生理学的な協同作業の起源であるが、これらの問の間にきっぱりと境界線を引くわけにはゆかない。問題の1と2は生物形態の多様性に、3と4はともに生物の《合目的性》の起源に関係している。…近代淘汰説が問題1と3や、したがってまた小進化を説明することはほとんど議論の余地がない。今日ではもう一組の問題、2と4、つまり大進化がむしろ議論されている」90-1頁

「突然変異・淘汰・隔離という機構は実験的に確かめられている。けれども倍数性による2、3のばあいを別にすれば、私たちの経験するかぎり《大進化》はさておき、<新種>ができた例はまずない。つまり淘汰説は一つの外挿法なのであるが、基礎概念が印象的なので、このような大胆なやり方も行われるのである。…私たちは実験遺伝学をいまから50年とさかのぼらぬ間、しかも数ダースの対象についてやってきたにすぎず、それらの対象の突然変異は、種の境界を踏みこえはしなかったのだから、《アメーバから人間までの》進化のいく十億年にも同じことしか起きなかったとの結論は、あまりに大胆すぎる。そこでこの種類の議論をするにあたっては、経験事実による判断だけではなく、思考上の可能性がやはり問題となる」91-2頁→

(承前)「生体には、なんの役にも立っていないようにみえる形質が無数にある。かなりの範囲で、分類学者が決定的だと考えるような形質は、実は機能的にはどうでもよければこそ、恒常的な特徴を保っているのだ。…分類学の骨組みをなすこれら形態学上の特殊性は、すべてそれ自体では別に有用というわけでもないが、さまざまな生命の状態に適応しうる《型》をたしかに示しているようである。…《自然の芸術品》で、その幻想的で多様な形態には、はっきりした有用さはなにもない。淘汰論者は、こういう点にもすこしも困難はないと考える。淘汰の圧力が小さい、均一な媒質中のばあい、無意義な構造でも、そのままつづいてゆくことができる。そうしたものはシーウォル・ライトの原理[浮動]にしたがって、小個体間に分割された種の中で機会的に生ずることもある。またそれ自身は無益な性質であっても、淘汰に属する性質——おそらくは単に生活力の違いかもしれないが——とむすびつくことによって、続いてきた場合もあったろう」92-3頁→

(承前)「次の基本命題は、生物界に広くゆきわたっているようにみえる。すなわち、《複雑でもよいのなら、ではなぜ単純なのか?》および《ああでもいいのに、こうもなる》といった類の現象が多い。ずっと簡単にしかも危険を冒しもせずに、ゆきつくことのできる目的に対して、驚くほどな回り道がしばしばとられている。…同じ生存競争をもちこたえるためにも——と淘汰論者は答える——いろんな手段があり、これらの形態が生き残っているのは、それが有用ななによりの証拠ではないか。
…ルトヴィッヒは…有害な性質に対して淘汰主義は14ないし20ばかりも説明を与えうると主張した。…14ないし20という説明には、次のようなものがある。一、今日では無意味か有害な形質も以前は役に立つことかできたのだろう。一、無意味な形質はたぶん多表現ということによって、淘汰価値あるものと結びついていたのであろう…一、無用な形質は性的淘汰によってはぐくまれる。一、種間的には安全に生存している種に、種内的淘汰がおきた結果として、ついに種自身にとってさえ危険な無用有害の発達がもたらされた、等々である」93-5頁

「小進化と大進化、つまりある《型》の内部における形態の多様さの起源とこの型自体の起源が原理的に同じ性質だということも、上述の論争と同じ強情さで拒否されたり弁護されたりしている。…大進化論者のいう《型》の起源は、小さな変化がしだいに積み重なってきたことによって生じたのではない。発生初期の段階に、広範な《作り変え》を左右する《大突然変異》がおきた結果だ。このことは、進化に2つの相が認められるという古生物学上の見解によって支持される。まず、新しい型が突然にできて、でると[ママ]すぐ爆発的に主要な形態の多様性へと分散する。次に、既製の形態の枠内でゆっくりと前進的に種が形成され、いろんな生命領域への適応がおきる。この問題にも淘汰論者は答があって、《型》とよばるべきものは一義的に確定できないから、《大進化》と《小進化》の境界線は引けないという。…いろんな《型》の中間段階が稀であったり、ほとんど欠けていることも簡単に説明できる。新しい型は先祖へと根を張ることが浅いので、それに応じて保存される化石もごくわずかなのだ。…かくして、小進化と大進化の間に原理的な差別があるとか、遺伝資質の変化の法則は過去ではいまとちがっていた、という仮定にはなんら科学的根拠はないのだという」96頁→

(承前)「進化的発達は《有用性》によっては理解できないとしばしば説かれる。高次の体制が淘汰価値を示すなら、高等生物は下等のものを駆逐してしまったはずだ。しかし任意の自然の断面ではすべて、単細胞から脊椎動物におよぶすべての生物のいろんな体制段階のものが、どれもみな生きながらえている。いや生きているどころか、生物共同体の成立にとって必要でさえある。…
…外挿や、《有用性》のゆえに進化的変化ができてきたという主張に対しては、実証したり論駁したりする可能性がない。ある形態が生きのびてさらに発展したならば、その時は変化は有用だったか、有用なものに結びついていたか、害にはならなかったか、そのいずれかに違いない。でなかったらその形態は死に絶えたはずだ。それにしても、いつでも<事後の予見>〔場合によれば牽強付会〕(vaticinatio post eventum)であって、チベットの折り臼とおなじく進化論も、あくことを知らずくり返し念仏を唱えている——《万事有用》と。だが実際なにがおこったか、本当はどの道が採られたのか、進化論はそれについてはなにも言わない。進化は《偶然》の産物で、《法則》にしたがうものではないからだ。けれども、それではたしていいだろうか?」97-8頁

グールドを先取りしたようなことを言ってる

「進化は外部要因によってだけ方向をきめられるところの無法則的現象だろうか。つまり偶然な突然変異と偶然な外作用とが、さまざまな生命条件や条件から生ずる生存競争とかの形において生みだした偶然の産物なのであり、これに、やはり偶然な隔離と、それに続く種形成の影響がつけ加わるだけのことだろうか。あるいは進化とは生物自身の内にある合目的性によって決定されたり、助けられたりするのだろうか。…
 数学的解析の示すとおり、淘汰の圧力は突然変異の圧力よりもはるかに強く、優勢なものである。…
 いま述べたことと、突然変異の《無方向性》とから、淘汰主義は次の結論をひきだした。進化現象の方向は外部要因によってだけ、きめられると。しかしこの結論は前提からでてきたのではない。淘汰が一般に進化の<必要>条件を示すとしても、だからそれが<十分>条件をも与えるということにはならない。
…この説は淘汰圧がない例外の場合は別にすれば、あらゆる進化過程においては、関与する生物体に対する《利益》が増大するという限定条件を定めている。だが個々の場合になにかがおこるかどうか、またなにがおこるかは、淘汰原理からは訊きだせない。…淘汰原理ですべてがいいあらわせるという生物学上の主張は、いまでは時代遅れの《エネルギー主義》とでも比ぶべきもの」99-100頁

「進化説は莫大な事実を材料にして、動植物の世界が地質学的時間の経過につれて単純で原始的なものから複雑で高度に体制化したものへ発展してきたことを立証した。…けれども、実際は現存生物や化石生物の世界の内に継続する移行過程は見いだせず、見いだされるのは別個にはっきり区別できる<種>だけである。<種>の内部に多少豊富な突然変異や品種があるにしても、連続的な移行過程がもしあるとすれば出会うはずの、種から種への中間段階がみつからないという事実に変わりはない。生きた生物の世界も化石のそれも、一つの連続体ではなく不連続体である。
 たぶん個々の遺伝子だけでなく核型にも安定条件があてはまることが、種の不連続の理由なのだろう。…《種》とは、その中に安定した《遺伝子平衡》ができている状態であると。つまり種の中では、発生が調和して発展できるように、遺伝子が相互につりあっている。…ある種から他種へと移りかけている形態は、はなはだ不安定であって、とくに淘汰の攻撃にさらされやすい。それだからこそ、淘汰は速くすぎ去ってしまわぬわけにはゆかないのである[😅]。つまり一つの形態がもしも中間期間に死にたえないでいれば、やがて新しい遺伝子平衡に達し、形態はふたたび長い間安定していられるのだが、それまでは静止的になることは少ないのである」102

「小さな突然変異や淘汰によって連続的な作りかえをおこすには、地質学的時間で足りることを証拠だてるのがそれまで常套の方法だったが、このやり方は当をえていないとシンデヴォルフが強調しているのは、おそらく正しい。人は進化の出発点と終点だけに目をむけて、その中間の時間を、等分された小さな変形で埋めてしまう。しかしほんとうは、形態はにわかに多様性を現わす。種の系列のなかでは、ある種が現われてから、次の種を世にだすために、たえず作りかえをやっているのではない。何十万年かの間そのままでいて、それから、急に次の種を世に送る。型の内部では、すでにはじめから大きな綱は存在している。…こういう現象こそが、シンデヴォルフの先発生説(プロテロゲネシス)を根拠づけるものの一つだった。この説では個体発生初期の飛躍的な造りかえが、そのまま新しい型の起源になるというのである。…動植物界の基本型がかなり少ないことを考えると、進化の大きな一またぎに相応するのは比較的稀に現われる遺伝変異であることがわかる」103-4頁

断続平衡説ですなあ😅

「ある状態から他の新状態へ移行する時にも、種や型が維持されてゆくばあいにも、安定条件がどんなものかという問題とともに、いわゆる進化の《静力学》を考えてみる必要が生ずる。…静力学に対立するのが《進化の動力学》、すなわち進化的な変遷によって支配される法則性の問題である」104頁

「生物体が進化の中で経過する変化がまったく任意で偶然だなどということはあるまい。変化はむしろいちじるしくかぎられている——第1に遺伝子での変異の可能性により、第2には発生において、つまり遺伝子システムが実際に作用を営んでゆくさいの変異の可能性により、第3には体制の一般的法則性によって。
 この結果、進化はしばしば一種の《直進現象》の印象、すなわち一定方向への前進という印象を与えるようになる。…方向づけられた変化が淘汰にさからって進化の経過を定めるという意味での直進現象は稀であるか、または一般にそんな現象は存在しない。しかし進化が、生活状態とかそれに原因する生存競争とかいう外部的偶然事だけではなく、内部要因によっても定められるという意味ならば直進はありうる。《進化の袋小路》つまり好ましくない方向への進化系列は淘汰が弛んだ時、すなわちある形態群が揺がぬ支配権をかちえたときに、おこっているもののようにみえる。…そうした時期の条件は、飼育下の条件に似たところがあって、人間に護られている種はしばしば奇怪な多種多様の形態を示す」109-10頁

「私たちは近代淘汰説を充分に評価するものではあるが、本質的にちがう進化の形像に到達してしまう。進化とは、地球の歴史の中での環境の移り変わり、そこから生じた生存競争、またその結果、突然変異の混沌とした素材をふるい分けて淘汰が行われたというような、歴史に伴う偶然事だけできまるものではない。もちろんまた、完成への衝動とか合目的性と適応への傾向とかいう神秘な要因のしわざによるのでもない。進化とはまさに本質的には生物の諸法則の共同作業によって決定される」111頁

「生物の《合目的性》を偶然によって説明した最初のダーウィン主義者はよく知られているように、前ソクラテス時代のエムペドクレスだった。…ダーウィン説は国民経済の観点を有機体生命の上に適用したものであることも、同様に有名である。生きものは彼らの食料の分量が増すよりも急速に殖えつづけるというマルサスの報告が、ダーウィンの重要な出発点であった。あらゆる現象を《利害》と《競争》の概念でかたづけようとするのは、マンチェスター学派の国民経済学に一致する。…
 生物学のどの分野にもあるあの2つの案が進化論にも通用する。一方では機械論がある。これによると生命も、それ自体としては無意味な無機的現象であるが、真に科学的な理論の唯一の基礎のように思えるからである。他方、この見方に対する反動[生気論]があったが、この唯一の代案は、みうけたところ自然科学には統制できない要因や、神秘主義への道を開くにすぎない。ここでもまた、総合は有機体論の法則である」112-3頁

「[社会と同様に]生命の進化もまた、利益で方向づけられた偶然の産物以上のものと思われるのだ。それは<創造的進化>(evolution créatrice)という打ちでの小槌、緊張と動力学との悲劇的な錯綜にみちたドラマともみえる。生命は苦心惨憺し、たえずもっと高い段階によじ登ろうとする——一歩一歩にそれだけの支払いをしながらも。…
 だがしかし科学の立場から見ればそのばあいには生命の歴史は偶然の堆積ではなく、偉大な諸法則にしたがうことがわかる。擬人的に適応・合目的性ないしは高まりゆく完全化を目ざす指導要因ではなく、今日ようやく知られ始めこれから先にもさらに知られる望みのある諸原理が、生命を支配するのである。自然は創造する芸術家だ。しかし芸術とは偶然でも恣意でもなく、偉大な法則をとり行うことなのだ」115-6頁

「生命の歴史的性格
 有機体は体制・過程の動的な流れ、歴史の3つの要素で特性づけられる。《生命》は電気・重力・熱その他と違って任意の自然物に現われたり、分かち与えられるわけにゆかない。むしろ生命は、独自の体制をもったシステムとむすびついている。このシステムの中では、過程の連続した流れとパターンも、同様に独自である。最後に生命という存在はすべて、同じ生命に起源をもつ生命の個々の存在(生物個体)の経歴のみならず、個体が由来してきた世代の歴史の特徴をもになっている。…生物体をその根本特徴にしたがって《定常状態にあるシステムの階層構造》として定義しようと思う。…
…経歴は物理的過程の中では、いわば消えうせる。これに対して生物は歴史的存在と考えられる。…生物の行為のなかにも同様に歴史的な要素がはいりこんでいる。動物や人間の反応は、その生物がそれより以前にうけた刺激や以前に行なった諸反応と関係がある。これがヘリングに《有機物質一般の機能としての記憶》を仮定させたり、ゼモン、ブロイラー、リニャーノたちによる記憶的生命理論をして、個体の記憶と進化とは対比できるものだといわせたりしたのである」116-7頁

「生命のまさに根底に横たわる歴史的特殊性は…数式には含まれていない。歴史的特殊性とはつまり、系統発生の途上で原基が集積し、これが個体発生のさいに、ヘッケルの生物発生の基本法則にしたがって、展開してくることである。ヘッケル説は細部では改訂されるべきだが、原理としては正しいのである。…原基が系統発生的に集積し、個体発生的にこれが展開されるというこの二重過程は一枚のレコードと比べていいのかもしれない。このレコードは、その時々の旋律の跡をとりいれ——つまり《吹きこん》で——これをまた音に再生するのである。しかしレコード盤である《ゲノム》の本体について、遺伝学はなにも言明していない」118頁→

(承前)「遺伝学と実験的な進化研究は、もっぱらすでに存在する遺伝子の突然変異的変化に没頭してきた。だが明らかに進化は現存遺伝子の変化にとどまらず遺伝子の新生を含んでいる。そうでなければ、私たちはふたたび不合理な前成説におちいるのであって、原アメーバにすでに人間と同様な遺伝子構成があったと仮定することになる。遺伝子の新生に関しては生物学は無知も同然で…ここから広範な結論を引きだすことはまず望めない。…進化の基礎についての統一的概念によるなら、系統発生上の変化を新遺伝子の導入としてではなく、むしろ全核型が新しい状態に移行することと解釈できるかもしれない。ちょうど心理学的な記憶を、特定神経繊維の中に個別的な痕跡が残ることとしてではなく《脳領域》全体の変化として理解することと似ている」118-9頁→

(承前)「これと関連して、さらに一つ問題なのは、《巨視的》物理現象の方向は、第2法則にしたがって秩序の解消へとむかっているが…これに対して生物では、《アメーバから人間まで》の発展の中で、秩序の高まる方向がむしろ現われているように思えることで…ヴォルテレックはこれを《アナモルフォーぜ》と名づけた。…生物学領域では、淘汰の理論によれば、偶然が分化と複雑化を高める方向に働いている。
…もし生物にも組織化の力、高い次元の《結晶化力》があるならば、生物のアナモルフォーぜはエントロピー原理と調和する。…おそらく生物学上のアナモルフォーぜも、結局は量子物理学の観点から見るべきものだろう。現に突然変異に対しては、これがおそらく正しいだろう。…近年ようやく発見された要素で、根本的意味をもつものがある。閉鎖系と違って開放系では、エントロピーの減少・高度な異質化と複雑化とがおこりうるのだ」119-20頁→

(承前)「生物体は、部分構造・部分過程の交換関係を示す空間的全体物である。空間的システム全体(単なる因果の連鎖ではなく)が現象を規定するのであって、これと同じく、現象はまた時間関係の総体によって(単に目下の条件だけによるのではなく)きめられる。生命の空間的全体性と履歴性は結局、同一の空間=時間的全体の別の側面なのだろう。…空間的にも時間的にも、生きたシステムの中のことがらは一因的(生物体は現在条件により決定される因果関係の集積であるという意味で)にきまるとは思えない。むしろそれを決定するのは全空間=時間的なパターンである。…かりに私たちが生命現象を一つの式で片づけるならば、その式は空間的全体性と時間的全体性を同時に表明しているような微積分方程式となろう。理論物理学と一般システム理論…を関連づけて扱わねばならぬ深い問題がここにある」120-1頁

「中枢神経系の中の過程と生物の行動とは、生物学的にも臨床的にもひとしく重要な領域である。この分野においては、新しい発展がおきて有機体論の立場の興隆が、とくにはっきりと示されている」121頁

フォロー

「解析的な見方と、全体としての見方とはある種の相補性を示す。私たちは、生体中の個々の過程をつかみだして、これを物理=化学的に定義できるが、こうすると、生体はひどく複雑であるために全体からは遠ざかってしまう。あるいは、別に生物学的なシステム全体に対する法則性をうちたてることもできるが、その時には個別のことを物理=化学的に決定するほうはあきらめねばならない。
 第1のやりかたは、生化学・生物物理学および生理学の常套である。だが経験によるとこのやりかたは、まさに生命独自の《活きた》特徴から遠ざかるように思われる。…物理=化学的現象を調節的因子で補おうとする…生気論がかった見方に対して、むしろ正道な透過性のシステム理論…をとるべきではあるまいか。…解析的なやりかたは、生物システムの全体性からおこる別種の考察方法で補われる必要がいつもある」164-6頁

「生物学の法則は、物理・化学の法則をただあてはめただけのものではなく、ここには独自の法則領域がある。これは、生きたものの中で生気論的な力が活躍しているなどという、二元論ではない。しかし、生物学の法則領域は物理学の法則よりも、さらに高次であるように思われるのであって…またさらに複雑な第3段階としては社会学の領域がある」166頁

「第2の問題は、生物学の法則性が結局は物理学へと《還元され》うるかというのであった。…結局は物理の法則界と生物学の法則界に統一が将来いつか生まれるだろうことは、ほとんど疑う余地もない。なぜなら、以前離れていた分野が総括されるのは、論理的にいっても科学の発展の一般的な特徴だからである。…だが一方基本的にはそうであっても、さしあたり生物学段階の法則性を、それ自体として確立する必要がなくなってしまうわけではない。…
…生物学の本質的な問題の多くは、量的な大きさの問題とはかぎらない《型》であり、《位置》であり、《形態》でもある。
 たとえば生物体の階層構造において…興味をひくのは定量的関係ではなく、上位と下位・集中化等の関係である。…
…問題が定量的性質のものではなくて、秩序関係・位置関係を取り扱っている。
…生物学の《機械論》は物理的自然法則の目録を、はじめから決定版だときめてかかったので、生命現象を説明するさいにも、この目録だけをただ間違いなく適用しなければならなかった。だが、実はそんな目録などありはしないのであって、物理学の概念システムに思考手段のどんな拡張が必要であるか、両分野の総合ができないうちは何ともいえない」166-70頁

「自然についての学説はどれでも、その学説に数学がどのぐらい含まれているかによって真の科学たる程度がわかる、というカントの命題は…正しい。…未来の生物学の法則系が、どんなふうなものかはわからない。そこには今日ぼんやりと予期されはじめたくらいでしかない生物構造の法則も含まれるかもしれない。だが、これらのことがどうあるにもせよ、未来の生物学の法則系は論理的演繹という性格をもちそれゆえ《数学》を含み、したがってまた形式的に物理学と同性質のものであるだろう」171頁

「生体はむろん思いも及ばぬ多数の原子や分子からできていて、その桁は100万の4乗(1兆の1兆倍)に達する。だから物質交代・生長・形態形成・大多数の刺激現象等、生物現象の多くのものには古典物理学の決定論的法則があてはまるのももっともなのである。
 だが、生物現象のうちにはこの例外となるものがある。著者は『物理学における大変革が生物学に対してどんな意義をもつか』について、はじめて疑問を投げかけた一人であった。…1932年には著者は次のように述べている——『生体中では、微視的な物理事象が、システムのさらに広い領域にゆきわたっていく結果、物理的・統計的確率が破られる可能性のあることを心に留めておかねばならない』と。この着想はパスキュアル・ヨルダンの手で《生体の増幅理論》として作りあげられた。遺伝のような調節中心でおきた微視物理的事件は、生体中で増幅されて巨視的な影響を表わすという」174-5頁

「物理的非決定性と意志の自由という、まったく別平面にある問題を並べて置こうとする試みがしばしばあるが、これは警戒されねばならない。…物理的因果性がほっておいた隙間に自由な意志がくい込むというような仮定は、エンテレキーが物質的現象を統御するという生気論の考えかたと軌を一にしている。私たちは、生体の中でエンテレキーなど働いていないことを直接証明してみせて、生気論に反対するわけにはゆかない。そのわけは、生体についてラプラス流の予見をするわけにはゆかないし、また古典決定論を仮定しようにも生体の物理的構成を十分あきらかにはできないから、私たちの知識の間隙に生気論的要因が《侵害》してくる可能性は、たえず残っているからである」177-8頁

「有機体論が実際に目ざすところは消極的であいまいな未来への予言よりはるかに本質的なもの、すなわち、現在のための積極的な研究計画である。いままでやられたことはほとんど生体中の過程の物理=化学的説明ばかりだったが、これでは生体の秩序の法則性を認識する役にはたたない。生体の法則性こそが、生体中の過程を生命の過程たらしめるのであり、これまで《機械論》生物学がほとんど眼中に置かなかった有機体のシステム法則を発見することが、生物学の根本の宿題なのである」179頁

「生物学的なものも含めて世界のあらゆる現象は、物理的最終単位や、それらの間になり立つ自然法則として働く力できまるのだろうか。あるいはまた、生きたものの領域ではその他に、結局は霊魂的な性質の実在要素があって、これが最後の粒子の運動に支配的な影響をおよぼすのだろうかという形而上学の問題がある。この質問に意味を認めることはできない。…《自然法則》とは因果的に働くにせよ、目的的に働くにせよどちらでもいいが、とにかく擬人的な力が支配することではあるまい。ここに擬人的というのは、因果的というばあいには私がある物体に与える衝撃などを範にとるということ、目的的というばあいには私たち自身の目的をめざしての行為を手本にする、ということだ。…形而上学的機械論と生気論の対立は、見かけの問題だ。なぜならばこの対立が仮定する二元論、すなわち形而上学的実在だときめられた生命のない物質と、たえず物質を支配する霊魂との二元論は、今日もはや通用せぬような物理学的世界像に基づいていたのだからである」179-80頁→

(承前)「有機体論は機械論対生気論の問題を解決することにはならない、としばしばいわれる。なるほど有機体論は、ふつういわれる代案と同列に置けるものではないかもしれない。生命現象を物理・化学に還元したがる《機械論者》には、物理=化学を越える法則とかパターンに言及することは話を混乱させるものと映る。《生気論者》の方では、そういう固有法則性は機械論的なものだと考える。なぜなら、その法則性は物理=化学的法則性の仲間であって、形式的にはなんら違わないからである。だが実のところ有機体論の本質は、機械論と生気論の対立をもっと高いところで克服するところにあった[😅]。生命固有の法則性を機械論者はしりぞけ、生気論者はその法則性が自然科学の手には負えないというが、有機体論は、生物に固有な法則性が自然科学的に探求できる問題だという立場をとるのである。
 かくして方法論的に新しい立場が生まれる。有機体論の方法は生物システム全体に対して正確に定式化しうるような法則性をさがすことである」

「自然探求者が言及しようとしたほとんどすべての哲学的課題に有機体論はふれてきた。けれども物の本質や、生物と無生物の本質がどうちがうかという疑問に関しては、自然探求者はなんの発言もしない。実際、機械論対生気論の争いにおいても、問題になっている2つの自然科学的解明はけっして敵どうしではない。一方は物理=化学的法則性、他方は特別な活力の法則性から、生命現象を導きだそうとしていたのだ。むしろこの対立の本質的な相違は科学的な説明と擬人的《判断》の対立という類のものである。自然科学は客観的に確認できる現象を記述し、説明することにかぎられるものである。この場合《説明する》とは、一つのまとまった思考体系中に整頓するという意味である。生気論の目ざすところは別であって、物の《内部的本質》についてなにか発言し、私たち自身の体験の鋳型にのっとってこれを解釈しようとする。…自然科学とも詩ともつかぬ、生気論の奇妙な中途半端の立場は生気論の効力を失わせた。生気論が客観的に探求できる自然の中ではなく、先験的な生命原理の中に生命の全体を探しているかぎり、それはけっして生物学理論の礎とはなりえない。他方でまた生気論は形而上学的直観を合理化し、作用力として自然科学にひきこもうとすることによって、水を割ってしまう」181頁

「結晶では格子による構造は確固としたものであって、ほとんどどんな結晶にもある歪みは、結晶の組立てに対して本質的なものではない。だが生きものの形においては、構造は可変的で形体が確定しており、形態はいわば鋳型とみてもよいのであって、個々の細胞は、数や位置についてはずいぶん任意に、この鋳型を埋めることができる。…
 さらに等結果性の中にも自由度の増大をうかがうことができるのであって、閉鎖系は最終状態にいたるまでの道程を初期条件によって指定されてしまうのに反し、開放系では同一最終状態が任意な道筋から達成される。…
…統計学の階層構造の中では、高次レベルに移るにつれてだんだんと自由度が大きくなってくるようだが、これは物理的単位事象が非決定論的だからという意味ではない。現象は全体としては合法則的にきまっているが、その個別事象ではいろいろ違う可能性がありうるのである」184-5頁

「古典物理学が仮定したのとはちがって、現象は連続的なものではなく、飛躍的性格を有しているという判断も基本的な要素であり、この認識を物理学的に表現したものが量子論である。…生物学の面ではこの認識は突然変異説として表現されており、この説にしたがうと種は滑らかに移りかわるのではなく、不連続な飛躍の結果、移行がおきる。量子論と、これに密接な関係をもつ突然変異説…が、同じ1900年にその基礎を与えられたことは、たしかに偶然ではない」187頁

ほんまかいな😅

「遺伝子もまたとくに体制化して高度の安定性をもった巨大分子で、照射の作用によって、量子が命中するとか、自発的突然変異のばあいのように熱振動によるとかいう比較的まれなときにだけ、新安定状態に移りその状態に束縛される。物理学的な量子論と生物学の突然変異説の関係はこの点にあるのであって、遺伝子分子が新安定状態へ飛躍的に移行するのはエネルギーの受渡しが任意の少量では行われず、量子化されているからだ。そして生物学的にみれば、ある品種から他の品種への移りかわりが滑らかでなく、やはり飛躍的だということも…このような事情によって説明される」😅😅😅 189-90頁

「生物学的思想は数十年このかた私たちが《有機体論的》と名づけた考えへ向かって動いてきた。…
 物理学での機械論が、生物学にどんな影響を与えてきたかはすでにみたが、生物学も一般の傾向にならって、生命現象を個々の部分、個々の過程に解消してきた。生体を細胞活動の和として表わそうとする立場などもこれで、物理現象が偶然の法則に支配されると思われたのと同様に、体制と機能をもつ生物も、無方向な変異と選択が生みだしたものと解されてきた。この見方はまた経済[学]の潮流や理論ともおおいに関係があり、じっさい…マルサス理論を、ダーウィンは生物界全体におしひろげた。その理論にもとづいて、生物界では生存競争がおし立てられたが、これは工業化開始のころ国民経済学のマンチェスター学派がもてはやした自由競争理論を生物学に応用したものである。生命現象すべてを有用性の観点で判断しようというのは、時代の思潮にかなうものなのであって、無生物の世界をその手に収めて勝ち誇ったこの時代は、生命をも機械としてとり扱った。生命の機械説はそうした時代を表現している」191頁→

(承前)「機械論の解釈にも底がみえてくると、こんどはその見通しから、まず生気論が導きだされた。部分の和と機械的構造とを指導要因が支配するという仮定が生気論である。どちらの見方でも足りないことがわかってきて、ついに有機体論が生まれて、全体性の見方に科学的な意味を与えるのであるが、こういう道筋は生物学・医学および心理学に共通していて、いずれにも認められるものである。
 近代生物学に現われた基本の諸原理や、個々の領域でこれらがどのように働くかということは、いままで逐一論じてきた。その一つは、全体性の考え方であって、部分部分の過程だけでなく、幾重にもなった交代関係やその法則性を認めることが必要なのだ。この関係や法則性は、攪乱のさいの調節にも、またもちろん、正常の生命現象にもあらゆる分野で見られている。さらにまた体制の原理がある。…もう一つは力学的(動的)な考え方で、生物構造は存在するのではなく生ずるのであり、生体を維持し形成するエネルギーの不断の流れを現わしたものこそが構造であるという。こうした動的な見方はいろいろな領域で精密な生物学法則へのいとぐちを提供し、等結果性のように、自然科学では解けぬ生命の神秘とされていた現象も、これによって理解の基盤を与えられる」😅 191-2頁

「生物学のあらゆる理論的な考えは、体制の問題をめぐる。生物学でみられるようなことがらは、そのシステムの体制ということによって説明すればよいとホールデンは思ったのであったが、フォン・ベルタランフィやウッジャーの有機体論の立場では、逆に体制を作っている基礎を研究すべき必然性が生じてくる。体制は説明になるどころか、生物学におけるもっとも魅力的、もっとも困難な問題なのであって、この問題は生気論をもっとしては片づけようがない。…物理学者シュレディンガー(1946)は…独立に、有機体論とまったく一致する立場にたどりついた。『生きた物質が、いままでにうち立てられた物理的諸法則をのがれるものでないことは、確かめられている。しかしおそらくは、今まで知られなかった別の物理法則をも匿しているだろう。そして一たび知られた暁にはこの新法則も、もとからの物理法則とおなじく、この科学の不可欠な部分となることだろう』」193-4頁

「生体内の生命現象の秩序という本質的な問題…いままで部分的に知られているミゼルの秩序の法則性のすぐ先に、まだわかっていない法則性をもったずっと動的で柔軟な秩序、すなわち原形質や細胞の《生きた》体制性とよぶところの秩序が、おそらくつづくのである。もちろん、その生きた体制は《柔軟》であるほかに《動的で》もなければならぬだろう。ここにおいて、《体制》の問題は《定常状態》の問題と合流する…
…高い体制の水準においては、<構造>と<機能>の対立は動的な見方によって克服される。…生体とは、さまざまな速度をもった過程を伴う階層構造であると考えるわけだ」194-5頁

「[H.]ウェーバーは(1938)は、生物学が一般に環境概念をどう摑むかということを、有機体論によって説いた。フォン・ユクスキュルは生体と環境の関係のあまりに一方だけを強調しすぎた。つまり感覚的刺激への反応ということで、したがって彼の環境概念は刺激生理学的であり、擬心理学的なものである。だがウェーバーのいうとおり、環境の概念はもっと広く考えねばならないものであって、体制に働き影響するシステム全体という意味にとるべきである。これは、生体の特別な体制によって決められると同時に生体の存続を可能にするシステムを意味している。したがって生体の刺激となりうる事物だけでなく、生体の存在条件に関する複合体全部が環境に属するのだ。他方人間の活動の場合に、環境条件はその限界に行きつく。動物の環境はその物質的体制に依存しているのだが、科学の進展につれて、次第に脱人間化(Entanthropomorphisierung)の進行が見られる。すなわち人間特有の感覚生活に源を発する要素がどんどん消去される点で、そういえる。[アーノルト]ゲーレンは、ユクスキュルの環境概念を人間に適用することを批判したが、右[上]の結論もこれと同種のものである。彼もまた人類の文化活動にはこの概念は適用できないと述べている」195-6頁

「ドッターヴァイヒ(1940)は《生物学的平衡》について統一的な研究を行なったが、彼はもちろんこの概念を非常に広範に考えたので、当然区別されるべき現象も一緒に包括してしまい、したがってこの考えかたはしばしば形式的なものにとどまってしまった。彼はそれまでの《生物学的平衡》を3つに区別している。(1) 形態学上の《器官の平衡》(ジョフロワ・サンチレール、ゲーテ)。(2) 生物群衆的平衡(エッシェリッヒ、フリーデリクス、ヴォルテレック等、その他)。(3) 生体を生理学的に、動的平衡あるいは定常状態にあるものとしてみること(フォン・べルタランフィ)。…形態形成における競争・調節・優性・決定の定量的理論は、一般化された開放系動力学(だいたい私たちの《システム理論》の意味での)と勾配原理とにもとづいている。この原理を発展させたのはスピージェルマンであった(1945)。
 <動的形態学>(フォン・ベルタランフィ、1941)は生体を開放系としてとりあつかうことにはじまる。すなわち生物の形態を、現象の流れが法則により秩序づけられたものとみる。このような見地にたてば、形態学的研究法と生理学的研究法とが統合されるようになり、また<代謝>・<生長>および<形態形成>の法則を正確につかむことができる」197頁

「私たちの理論を演繹して得られる哲学的にだいじな結果としては…等結果性の問題が解決されたことや、形而上学的・生気論的と考えられていた目的指向性の概念に物理学的な基礎が与えられたことが数えられる。
 有機体論のもっとも広範囲な発展は、一般<システム理論>…を作りだした点であるが、精密で数学的な実体論(存在論)の基礎となり、またそれぞれ性格の異なった諸科学においても普遍的な概念は論理的に相同であるとする主張に、基礎を与えたものがこの理論だ」201頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。