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石崎解説「安定的で不変の家族システムという共時態の土台の上に、トッドの卓見に満ちた歴史の解釈と分析が可能になったわけだが、この共時態は、歴史的推移という通時態を説明するが、それ自体は説明されない。説明されない、つまり理由も原因も持たない、ということは『偶然』という言葉で表現されざるを得ない。現に『第三惑星』のタイトルは『結論』のタイトルは『偶然』であった。
 しかし人類の歴史が閲した長い時間の経過を思うなら、少なくとも『安定化』以前に想定される変動について、いつまでも判断停止を続けられるものではない。人類史、少なくとも現在の人類学=民族学の資料が可能にしてくれる限りでの人間の歴史を通しての家族システムの変遷を探求することは、人類学者たるものの責務ではないか。これが、トッドを『家族システムの起源』を求める新たな研究の道へと駆り立てることになったモチベーションであろう」830頁

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「日本では、最終的都市化の直前にイトコ婚率は7%近くに上っていたが、この内婚は、第二次世界大戦後には急速に姿を消した。この日本の内婚は、その地理的分布からして、太古の基底を喚起するのではなく、むしろ、許容性によってある程度の内婚の台頭が可能になった外婚制というものを喚起していた」801頁

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「レヴィ=ストロースの構造主義における非対称的交換…は、非対称性の最も一般的なケースであるわけではないのである。父系親族との婚姻を特別の禁忌として設定する三方〔内〕婚の方が、われわれのサンプルの中では、より重要である。いわゆる『アラブ風』婚姻は、人類学者にとって理論的重荷に他ならないが、四方内婚の枠内で、父方平行イトコとの婚姻への選好を最上位に置く、反転した非対称性を代表している」800頁

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「核家族性と未分化性から共同体家族と父系制へという、ユーラシアの全般的な動きは明白である。3段階の父系制(男性長子相続の台頭、父方居住共同体家族、女性のステータスの徹底的な低下)が相次いで起こるのは、中東、中国、北インドで探知し得るシークエンスである。…中東と中国での〔父系共同体家族の〕台頭は、独立に起こった事象である。インドのそれは、おそらく最初からメソポタミアの影響の下で起こったのだろう。直系家族の段階で停止した不完全な進化は、日本と朝鮮、そしてヨーロッパの一部というように、ユーラシアの東と西に左右対称的に分布しているが、そのこと自体が、『周縁部地帯の保守性』効果の、特に明瞭な具体例となっている。ヨーロッパと東南アジアの核家族性は、歴史のさらに古代的(アルカイック)な段階に関するものであると言うことができる」795頁

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「遊牧民フン人が父系的特徴を発見したとき、それは直系家族に結合した、あまり徹底的ではない形態で中国から到来したもので、多くの例外を許容していた。この同じ父系原則が、ベドウィン・アラブ人のところに到達した時、それは少なくとも2000年前から存在していたのである。それはすでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするものであった。…
 アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための1つのやり方だったのではなかろうか?
 それにしてもアラブ風婚姻とは全く独特のものであり、このことは、父系への変動は容易なことではなかったこと、いくつもの特別な条件、つまり父系性と内婚が組み合わさることのできるような環境が必要となったはずである、ということを含意する。集団が自らの内側に閉じこもるということは、社会を小さな自律的集団へと細分化するベドウィンの生活様式にとって、おそらく現実的な技術的利点を提示しているのである」790頁

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「<アラブ人による父系制の獲得と内婚の発明 1つの仮説>
 いわゆる『アラブ風』婚姻は、父系と双方性という2つの側面を含んでいる。その核心部分では、兄弟同士の子供たちの結合を特権化する限りにおいて父系である。また総体としては、いかなる種類のイトコであれ、ともかくイトコ婚に対する選好を表してもいるのであるから、双方的である。…
 …内婚というものはつねに、女性は重要であり、商品のように交換することはできず、女性の血もまた生まれ来る子供が何者であるかを定義するのだ、ということを含意する。内婚とはつねに、双方性の証拠もしくは痕跡なのである。
 父方平行イトコ婚が中心的であるということは、アラブの四方内婚の中心には父系原則があること、掟への違反としての内婚と父系的特徴の獲得との間に、何らかのつながりを探さなければならないこと、ということを見事に示している」789頁

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「<内婚、および未分化状態の持続>
 …父系居住と内婚は別々に考えることができない…実際、男の方も女の方も、生家を離れて結婚の相手の家族の許に移る必要がなくなるのであるから、その婚姻は出生地居住ということになる。したがって内婚とは、未分化状態の密かな持続に他ならない。つまり、兄〔弟〕が〔姉〕妹と結婚する場合は、男子も女子も同等の位置を占めることになる」785頁

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「<父系制の誕生と伝播 その概観>
 父系制は、ユーラシアの他のどの地よりも早くメソポタミアで出現した。しかし、中東空間の全域をたちまち占拠するに至ったわけではない。ひじょうに遅くまで、双方性の小さな孤立地帯があちこちに存続することになったのである。
 男性長子相続制に結びついた〈レベル1〉の不完全な父系制は、おそらく〔共通紀元前〕3千年紀後半にシュメールに出現した。父系制が対称化されて、アッカドにおいて〈レベル2〉に達するのは、2300年から2000年の間か、もしくは1800年頃である。反女性主義の〈レベル3〉は、2千年紀の終わり頃、アッシリアで検出できる。
 メソポタミアの中枢部から、父系制は、北東はペルシアへ、北西はフェニキア、ギリシャ、そしてローマへと広がっていったが、ローマでは結局、頓挫することになる。…
 イスラムとアラブによる征服の直前まで、エジプトは依然として未分化な親族システムを特徴としていた。
 アラブ人による征服は、これらの展開よりも後のことである。それは、中東において、父系原則によるこの地域全体の最終的同質化を実現する重要な役割を演じた。それはとりわけ、エジプトからモロッコにいたる北アフリカ全域に父系制をもたらした」776-7頁

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「数多くの時代に確認されているエジプト女性の法的な行動の自由は、そのステータスが、美しい物品(オブジェ)のステータスではなく、権利において男性と同等な者としてのそれであることを示している。すべての時代を通じて、民衆は一夫一婦制である。それに対して、貴族階級は一夫多妻制を実践した」767頁

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「エジプトの最も遠い過去の中に、ピレンヌは、ラスレットとマクファーレンがイングランドのはるかに近い過去の中に見出したものを発見した。すなわち、核家族と個人主義である。彼ら2人と同様に、彼は、大家族から夫婦家族へ、複合性から単純性への変遷を信じようとした伝統的な歴史社会学の不十分さを明らかにした。ピレンヌは自分の発見から理論的な結論を引き出してはいない。彼は、古代王国のエジプト家族はすでに近代的であったと言い、核家族性、双方性、遺書の使用といった近代性の属性を述べるだけに留めている。家族が大家族であったされるさらに遠い過去を、読者に自由に想像させているのである。
 しかし、家族構造と全般的社会構造の関係については、彼は一気に、ラスレットとマクファーレンの2人よりも先に進み、[ロジャー]スミスの段階に達するのである。…ピレンヌもまた、家族の核家族性と国家の中央集権化を系統的に結びつけている。…ピレンヌはエジプト史の中に相次いで到来した3つのサイクルを区別するが、それらのサイクルの中で,国家の中央集権化の局面は、個人主義的法と核家族に相当し、国家秩序の解体の中間的な期間には、家族の複合的諸形態の精力伸長が介入してくるのである」759頁→

有賀喜左衛門の、生活防衛的な共同体としての「家」論とも親和的だなあ

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「〈古王国下の核家族〉
 ジャック・ピレンヌは、古王国の下、特に第3王朝の下にあって、エジプトの特徴は核家族——ピレンヌの用語に従えば〈個人主義〉家族であったことを、示している。…
『…家族は最も限定された形態に帰着する。つまり父、母、子供たちで構成されるのである。…』」757頁

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「中東の家族形態の発展の中で、いくつかの全般的な結論は明快である。
・起源における、夫婦ならびに女性の高いステータスの明白性。
・メソポタミアの歴史の中の本来のシュメール局面における男性長子相続の出現。しかしそれは伝播普及して、ティグリス・ユーフラテス両河の平野全体に広がり、地中海にまで至る現在のシリアの領土にまで及んだ。
・家族システムの対称化。それは世帯の核家族性と父方近接居住を組み合わせた家族形態へとつながる。しかしそれは都市的環境の中で起こった変化であり、まぎれもない共同体家族を喚起する農村での不分割を伴っていた。
・メソポタミアの歴史における遊牧民現象の重要性。これら遊牧民の許で、ベドウィン系部族の家系的慣行を想起させる家系的慣行と、左右、南北といった対称化された概念を用いる部族的組織編成が、ハンムラビによる平等主義的遺産相続規則の法典化の直前の時代に、出現する。このことは、遊牧民の侵入による直系家族の対称化を示唆している。…
・女性のステータスの低下の激化。それには、新アッシリア局面を含む、いくつかの加速期があった。ここメソポタミアでは、父系の進展力は、時とともに自動的に強化されるという観念を含んでいる」752-3頁

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「家族形態の転換については、より古い年代を想定せざるを得なくなる。それはやはり西セム系集団の侵入と結合して起こったはずであり、共通紀元前2250年頃には、直系家族の不完全な父系制が対称化された父系イデオロギーへと変わる変換は、おそらくすでに実現していた、ということになる。この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほぼ直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである」751頁

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「〈1つのモデルとその諸問題〉
 この段階に至れば、私としては、中国シークエンスを驚くほど忠実に複写する進化の図式を提唱することができる。シュメールにおいて、当初は優勢であった核家族は、内因性の進化によって、何らかの直系家族的形態に取って代わられたと考えられる。定住民集団の人口密度の増大が、空間は限られており、人で一杯であるという印象を抱かせたからであるが、都市間の戦争が、男性優位と父系の選好の端緒を容易にする要因であったことも忘れてはならない。対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能となったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第1王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。時間的前後関係に忠実に従うなら、メソポタミアの歴史は中国のそれに大幅に先行するものであるから、秦の始皇帝はハンムラビ王の意識せざる反復者であったということになるであろう。その逆ではない」750頁

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「中国の家族の歴史を記述するために私が第3章で練り上げた図式との類似は、驚く他ない。それは、双方制という仮説を出発点にして、長子相続制と直系家族の台頭、そして最後に共同体変動に至るというものであった。この過程の全体に女性のステータスの低下が伴い、ヴェールの着用に至ることはないが、上流階級における纒足の慣行へと行き着くというわけである。中国のケースでは、私はいくつかの年代を転換点として提示した。メソポタミアのケースではそれははるかに難しい。…直系家族の台頭の年代を『2500年から2200年の間』…共同体家族のそれを『2200年から1800年の間』」745頁

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「〈3つの段階 中国からメソポタミアへ〉
 …メソポタミアの家族の発展の3段階を区別することができる。それは中国の歴史の中で私が特定した3段階と同一のものである。
 1 まず出発点において、典拠は不完全であるけれども、夫婦家族の優勢と、女性のステータスが男性と平等であったことを断定することができ、家族システムは…双処居住核家族型であり、さらにそれが、未分化な親族集団に取り囲まれていたと仮定することができる。…実はそれは人類全体に関わっていたのだ。…
 2 第2の局面において、シュメールに長子相続の規則が台頭する。これは父系原理の発展の第1段階である。とはいえ、3世代を含む典型的な直系家族的世帯の存在は、検出されていない。
 3 第3の局面において、兄弟間の平等と家族集団の共同体化が同時に明確になる。…この第2の変動の中心は、もはやシュメールではなく、アッカドである。やや北に移動したとは言え、相変わらず南部メソポタミアの中であることは、変わりない。
 家族はますます稠密化し、そうした家族形態の発展に伴って、女性のステータスも連続して低下して行くが、その動きは共同体家族の出現後も続き、アッシリアを初め各地における、ヴェールの出現が随伴する」744-5頁

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「ヨーロッパの親族システムの未分化状態、西欧の家族の核家族性、大西洋沿岸の女性のステータスの高さ、これらは、近代化の結果ではなく、そもそも出発点においては全世界に普遍的な、核家族的にして個人主義的、双方的にして男女平等主義的なものであった1つの人類学的形態が、ユーラシアの極限的な周縁部に生き残っている姿だということになる。周縁部に生き残ったものは、必要なだけ奥深く過去の中へ沈潜するなら、中央部にも見出すことができる。現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの1つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた」735-6頁

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「〈シュメールの第一局面における女性たち〉
 古バビロニア時代から出発して、3千年紀へ、シュメール・ルネサンスと言われる時代、次いでアッカド帝国の時代へと遡って行き、遂に歴史の曙たる古代王朝にまで達すると、女性のステータスが連続して上昇していくのが観察できることになる。女性の経済的役割は、上層階層においても社会の底辺でも、ますます明白になって行く。最も遠い過去において、女性は単に織物の女工というだけでなく、自由に財産を所有したり売却したりする力を持った取引の主体としても姿を現わしている。…長子相続制規則の存在が証明しているように、当時の家族システムが直系家族型のものであったと仮定するならば、この最初の父系制は残留性の母方居住に順応していた、と言うよりはむしろ、家系の連続性を確保するためにそれを必要としていた」732頁

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「メソポタミアほど。直系家族イデオロギーの誕生に有利な場所も文化もそうはないであろう。それは、充満した世界という意識から生まれた不分割の諸規則を備えている。しかし、長子相続制の規則が、北、北西あるいは東の、より広大で人口の少ない空間に伝播したことも、想定できなくてはならない。その際、長子相続制の規則は、いかなるマルサス主義的必要性からも切り離されたものとなり、東北日本や北スウェーデンで目にしたものに似ている。ヌジやアッシリアにおいて、長子相続制の概念が、それが必要でない家族システムの上に貼付けられたと想像することを妨げるものはなにもない。
 中国、日本、北インド、あるいはヨーロッパの一部のケースと同じように、シュメールのケースにおいても、長子相続制の中には、父系原則の不完全ながら最初の出現を見なければならない。要するに、息子たちのうち最初に生まれた者が肝要なのである。しかし、繰り返し言うが、男性長子相続制は、息子すべてを同等と見なさないのであるから、男性と女性とを系統的に対立させるようなイデオロギーに呼応することはありえないのである。一方に長子がいて、残る他方には弟たちと女たちがいる、というわけである」727頁

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