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(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→

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「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
 フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→

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「歴史上最初の中国王朝である商〔殷〕王朝…は、兄弟間の横の継承の慣習を出現させている。権力は、次の世代に移る前に兄から弟へと移行し、そののち長兄の長男へと戻っていく。横の動きに続いて、次の世代の年長の甥へと斜に降りるという相続のシークエンスは、『Z型継承』と名付けることができる。…古代日本や初期のファラオのエジプト、さらには今日のアフリカにおいて、これは何度か見出されることになる。…兄から弟への継承と、〈サイクルα〉の特徴である横への移行との間に何らかの関係があり得る。…
 さらに言うなら、亀甲上の文字は、兄弟間の継承を示唆しているとしても、父系社会を喚起しているわけではないのである」184頁

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「母方居住というものは、とくに母系制というその極限形態において、〈対抗模倣〉ないし〈異文化の分離的否定受容〉の現象であるということで説明がつくことが分かって来る。なお〈退行模倣〉とは、ド・タルドの言葉であり、〈異文化の分離的否定受容〉とは、ドゥヴルーの言葉である。つまり母方居住は父系制の接近に対する反動であり、それの地理的分布が接触前線のような様相を呈するのは、まさにそのゆえに他ならないのである」154頁

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「あまりにも単純な家族類型体系に捕われていた当時の私は、モンゴル、カザフ、キルギス、トルクメン、ベドウィン・アラブ、もしくはイラン人集団の父系のクラン的組織編成は、家庭集団の共同体構造に対応するものではない、ということを見抜くことができなかった。というのも、これらの集団の明示的な父系イデオロギーは、一時的父方同居を伴う核家族構造の上に、重なっているのである」133頁

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「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁

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「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁

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「核家族は、それが農耕という点で定義されるにせよ、都市化や識字化という点で定義されるにせよ、近代性と合致するわけではないのであり、複合家族の方も、未開性の地図と一致するわけではない。しかし本書においては、真の突き合わせは、空間との突き合わせであり、定義された類型が、それぞれ全く異なる、しかしそれぞれに有意的ないくつもの地帯に位置するのを、われわれは目にすることになるだろう。
 15区分の類型体系は、家族の組織編成のさまざまの形態を分類し、次いで空間の中に位置づけ、それらの位置の相互の関係から、それらの古さと進化の度合とについての明快な結論を引き出すことを、可能にしてくれるのである」108頁

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「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁

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「稠密化の過程にあるシステムの中では、居住先家族の選択について固定した選好が姿を現わすと、想像することができる。それが父親の家族なら、父系原則の出現へとつながり、母親の家族なら、母系原則の出現へとつながることができるが、ただし後者は…より稀に起こることである。ひとたび原則が確定すると、父系性もしくは母系性は、その厳密さそのものによって、家庭集団の追加的稠密化を促進して行く」98頁

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「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
 逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁

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「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁

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「<二重性> 家族の現実については、同時に2つの分析のレベルが存在することを忘れてはならない。核家族(夫婦とその子ども)のレベルと、核家族が集落に集まり協力することのできる枠組となる上位のレベルである。…核家族は外見上は〔核家族として〕『純粋』な形態を呈しているが、それはつねに代替の社会組織の中に統合されているのだ…それは、工業化以前の農村部における大規模農業経営に依存する村落共同体であり、現在の社会の場合では、社会保障型のメカニズムを含み持った、さまざまの形をとる地域共同体ないし一国共同体である。いずれの場合にも、国家というものが要になるように見える」97頁

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「3つの変種(双処居住、父方居住、母方居住)に分かれる<一時的同居を伴う核家族>というものは、本質的に重要である。それに対して、親族の核家族が現地集団の中に集まっているという近接居住の概念は、一時的同居を伴う核家族の3つの変種というものに付け加わる新たな類型の定義につながるとしてはならない。一時的同居は、その後に親族家族の近くに居を構えるということ〔近接居住〕があまりにもしばしば起こるのであるから、新たなカテゴリーの追加は、大抵の場合、二重化と混同を引き起こすだろう。…一時的同居を伴う核家族と近接居住を伴う核家族は、1つの類型の中の2つの微妙な違い(ニュアンス)をなすにすぎない。
 それに対して、囲い地の中に<統合された核家族>は、一時的同居より以上のものを表象している。物質的限界による形式化は、より緊密な夫婦単位間の協力を含意する。したがって囲い地への統合…は、まさに一時的同居を伴う核家族から共同体家族へと仲介する中間的カテゴリーを作り出すのである」96頁

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「2001年にディオニジ・アルベラは…アルプス型直系家族の神話を破壊した。直系家族というのは山地と緊密に関連するという誤った常識は、経験的な現実の誠実な検討から派生したものではなく、むしろル・プレイの概念構築作業から派生したものであるらしい。アルベラはル・プレイの聖三位一体の最も根底的な総体的批判を作り出した。それが還元的であり、現実を見えなくする効果をもたらすことを、明らかにしたのである」95頁

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「家族集団の分析では、ヤーマンの方がリーチよりはるかに優れている。家族システムの二元性の知覚に達しているからである。核家族を識別する要素は、ヤーマンによれば、調理場を所有しているということで、調理場は消費の単位をなす。ところが、1つの住居の中に複数の調理場が共存することもあるのである。しかしその場合、[リーチのような]家屋やcompound〔囲い地〕に関心を向ける者は、近接関係にある核家族というよりは、拡大家族を見ることになるだろう」93頁

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「〈近接居住ないし囲い地内集住の核家族〉
…狩猟採集民の現地バンドは、複数の親族核家族が組み合わさって、一段上の次元の単一性の中にまとまっているという様態の一つに他ならない。英語で書かれたモノグラフの中に見られる、compound〔囲いをめぐらした住宅群〕という語は、私は自由に『囲い地』と訳すのだが、こうした分析のレベルというものが現にあることを示している。
 囲い地が存在するときには、同居というものを、そしてそれゆえ家族というものを、ただ一つのレベルだけを持つシステムと考えることは不可能となる。核家族とこれらの核家族の集まりという2つのレベルでの構造化というものを認めなければならない。それが自立と依存との共存を可能にしているわけである」90-1頁

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