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「1 <直系家族>+聖職者権力への<異議申し立てに有利な地上的条件>(高度の識字化および/あるいはローマからの距離大)→正統プロテスタンティズム。北部ドイツ、北部スイス、南フランス、スウェーデンの場合。
2 <絶対核家族>+聖職者権力への<異議申し立てに有利な地上的条件>→アルミニウス派の色合の濃いプロテスタンティズム。ホラント、およびとりわけイングランドの場合。
3 <直系家族>+聖職者への<異議申し立てに不利な地上的条件>(低度の識字化および/あるいはローマからの距離小)→カトリシズムの維持。アイルランド、ラインラント、イベリア半島北部沿岸地方、フランス中央山塊およびアルプスの高地の典型的不動性。
4 <平等主義核家族>+聖職者権力への<異議申し立てに有利な地上的条件>→カトリシズムの維持。北部イタリアおよびパリ盆地に最も典型的に見られる安定性。
5 <平等主義核家族>+聖職者権力への<異議申し立てに不利な地上的条件>→カトリックの支配の維持。中部ならびに南部スペイン、南部イタリアに見られる形」155-6頁

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「アルミニウス説は自由意志を再建するのだから、神の権威を弱めることになる。宗教的形而上学と家族構造の連合の仮説からすればまことに論理的にも、それは父親の権威が緩和されている絶対核家族の地域に出現した。父親の自由主義が神の自由主義をもたらすわけである。
 ネーデルラントでは、絶対核家族は全土の55%しか占めていない。しかし、イングランドでは、絶対核家族が人類学的基底の70%を構成している」147頁

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「ここには神の似姿としての父親という精神分析の古典的テーマが姿を現わしているが、ただし相対化された形で現われている。というのもフロイトは、家族の型は単一であると思い込んでいたので、家族にはいくつかの型があり得るなどとは考えもしなかったのである。家族型が多様なら、父親像も多様であり、その結果、神の姿も多様になるわけである。もっとも、神と父親の同一視は、フロイトの主要な発見とは考えられないというのが妥当なところだろう」141頁

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「家族制度は、子供たちの父に対する関係と兄弟間の関係をコード化したものである。宗教的形而上学は、人間の神に対する慣例と人間相互の関係についての言及である。しかし権威もしくは自由という価値、平等もしくは不平等という価値は、概念的には大きな困難を伴わずに、家族に対する次元から形而上学的次元へと乗り移ることができる。父の権威主義(もしくは自由主義)は、神のそれとなり、兄弟間の不平等(もしくは平等)は人間関係のそれとなる。…『全能の神と、救済に関して不平等な人間たちという観念に他ならないプロテスタントの救霊予定説が容易に受け入れられたのは、権威的父親と不平等な兄弟を含む家族組織が以前から存在していたところ、つまり直系家族の諸地方においてである』という仮説…これと対照的に、形而上学的機会平等と自由意志の対抗宗教改革の教義は、自由主義的な父親と平等な兄弟を含む家族組織が前から存在していたところ、つまり平等主義核家族地帯において、擁護されたわけである」141頁

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「その2世紀あとに始まる神の消滅、これもまた家族制度の如何によって左右されている。創造主が人々の日常の精神生活から取りのぞかれるのは、まず最初に家族構造が〈神=全能の父〉というイメージを投影しない場所、兄弟間の関係に平等主義がしみ込んでおり、そのため何らかの超越的実在が存在するという信念がなかなか成立しにくい場所においてであった。宗教的危機は、家族構造によって自由主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係が行なわれている地方で始まる。大規模経営の農地制度は、しばしば平等主義核家族と結びつき、普通、強固な宗教的信仰心にはあまり適さないものであるが、果たしてこの農地制度が存在するかどうかが、早期の脱キリスト教化の条件となる」119頁

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「宗教という変数は、ヨーロッパの発展のありようを正確に理解するには枢要である。しかしこれを歴史の動きの記述の中に導入すると、実際には、差異化・分節化の過程をどう説明するかという問題を、論理的に一度後退させてしまうことにしか行き着かない。…宗教面から見た近代性が描きだす驚くべき地理模様の背後に、家族制度と農地制度の伝統的地理模様が透けて見える。ヨーロッパの人類学的分節化が、場所によって宗教面の変遷を誘導したり促進したり制御したりしているのである。
 家族の型はそれぞれが、自由か権威、平等か不平等という諸価値を背負っているが、それらの価値は、宗教改革に対するその地方その地方の反応をかなり大幅に決定する。そもそも宗教改革とは、人間の神への絶対的服従と人間間の不平等という、権威的にして不平等主義的な形而上学を、ヨーロッパに押しつけようとするものであった。権威的で不平等主義的な家族構造が支配的である地方だけが、このようなメッセージを十全に受け入れることができる。他の地方では、ルター派なりカルヴァン派なりの宗教改革に対する拒否や抵抗や歪曲が見られたが、それは人類学的拒絶に他ならない」118頁

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「<直系家族の地域はすべて自作農地域でもある。とはいえ自作農地域がすべて直系家族地域であるわけではない>」106頁

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「<絶対核家族>は、<小作制>の伸長に有利に働く。子供たちの急速な解放のため、血統による一族の形成や同一の土地に対する権利の親から子への継承は起こり得ない。共同体家族の場合と同様に、貴族ないしブルジョワの地主は、農民保有権が強化され、占有(地代による)が純然たる農民の所有権に変わってしまうことから護られている。とはいえ絶対核家族は、共同体家族の特徴であった依存と無力の立場に農民を陥れるわけではない。絶対核家族は平等原則に無関心であるため、経営資本を部分的にはまとめて譲渡する合理的な相続が可能であり、農民が一定の交渉力を維持することもできるからである」104頁

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「<平等主義核家族>は、<大規模経営>に理想的な運行の環境を提供する。親族集団の細分化、世帯と青少年(早期に家族から解放される)の流動性、こうしたもののお陰で、労働市場の確立は容易となり、賃金制のメカニズムが成立する。平等主義的相続規則は、農業労働者に適合する。農業労働者たちは大したものを所有しないからである。…
 <共同体家族>は、<分益小作制>にとって不可欠な人類学的環境をなすように思われる。というのもこの農地制度は、所有者と耕作者との間の関係を金銭化することを拒絶するのである。原則的に貨幣記号の使用を受け付けない経済という環境の下で、共同体家族は最大限の労働力の結集を可能にする。これほど多数の若い成人を含む、これほど広範な家庭集団の形成を可能にする人類学的システムは他にない。兄弟の連帯によって、強力な作業チームが形成されることになる。家族集団の発展サイクルの中で、時が来れば核分裂、つまり兄弟の別離が避けられなくなる。こうして家族が周期的に分解するために、農民が農地にしがみつき、土地の占有を次第に相続権へと変貌させ、最終的には貴族ないしブルジョワから現実の耕作者へと所有権の名義を移動させるに至るという過程は起こらない」103-4頁

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「極めて長い期間にわたって、大規模経営地帯が安定していることは明白である。とはいえ詳細に考察するなら、農地制度そのものは安定的とは言えない。大荘園の組織が<直ちに>資本主義的大規模経営そのものであるわけではないからである。この場合も〈内変化〉と呼ぶことができる。資本主義的農地制度が根を下ろす地帯というのは、もともと決まっていたのである」96頁

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「ジョルジュ・デュビィは『中世西欧の農村経済と田園生活』の中でカロリング期の大荘園を分析しているが、その際…大荘園モデルの普遍性に疑問を呈している。それが存在する地帯と存在しない地帯があるというのだ。パリ盆地では、農奴保有地と領主保有地との組み合わせが観察できる。しかしドイツ、北イタリア、西ガリア、フランドル、ブラバントでは、賦役労働の仕組みはあまり明瞭に現われず、姿を消している。この地理的分布は断片的な資料から伺われるものにすぎないが、驚くべきことは、この分布が、20世紀末の農業賃金労働者の地理的分布——これは網羅的な調査によるものである——と完全に重なり合うということである。パリ盆地は、9世紀においても20世紀においても、経営集中の地帯なのである。…
 イングランドのケースはさらに驚くべきものである。中世の大規模経営(荘園 manor)の地理的分布は、15世紀から18世紀までの間に起こった激しい変化にもかかわらず、1970年頃の大規模経営の地理的分布を先取りしている」95頁

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「『農地制度が時を越えて恒常的である』という仮説を明文化するという手柄は、1899年から1931年の間に、社会民主主義者カウツキーのものとなる。彼は、ヨーロッパ全域が、農地制度としては大規模経営と家族農場という二大類型に分けられているこの分割が、古くからの原初的で安定的なものであるという直観を持った最初の人間である。彼の説は、およそ大規模経営が出現するのは、征服によって屈服した住民が奴隷にされてしまうからだ、というものである。この解釈をヨーロッパに適用すると、暗にゲルマンの侵入と、さらにはローマによる征服に原因を求めることになる。農村社会の形が暴力によって整えられると、あとは安定した制度が千年以上も続き、それが産業革命にさえ抵抗している、というわけである。
 カウツキーが呈示した『安定モデル』は、マルクスが規定した『不安定』モデルよりも西ヨーロッパの現実に合致している。ブリテン島の例は別として、19世紀から20世紀にかけての近代化の期間に現実に確認された推移は、むしろ家族経営の強化の方向に向かっていた。…大抵は、大規模経営と家族農場という基本的区分が変化を蒙ることはなく、ただ家族経営地帯における土地の所有形態だけが変化するのであった」89-90頁

おもろいなあ

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(承前)「ここで家族制度という個別的ケースを通して、時の中での変貌、空間の安定性という論理図式が観察されたわけだが、この論理図式は、諸現象を同時に空間と時間の双方の中で把握しようと努める歴史学上の問題設定の特徴をなすものである。この論理図式の例は、他にいくつもの本書中に、他の型の変数、つまり宗教的・イデオロギー的変数をまとって登場するであろう。この複合的だが典型的な論理図式には何らかの名称が付けられて然るべきである。ある変数なり構造なりが時間の中で変化しながら、その空間内での分布に影響を及ぼさない、そのような変化を〈内変化〉endomorphoseと呼ぶことにしよう。〈内変化〉という概念は、諸構造が時のなかで変化して行くということと、それらの構造が不動の安定した人類学的地域の中に刻み込まれているということとを両立させるのである。
 内変化=時の中で変化+空間的安定性」84-5頁

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「ラテン世界にも、非常に長い期間で見た場合、家族制度は不安定でも、それが民族学的地域の安定性に影響を及ぼさないという同じ問題がある。この場合、疑問があるのは、家族構造の核家族的な自由主義的要素である。これに対して平等主義的要素の方は、安定的と考えることができ、これはいわゆるローマ時代以来——ローマ帝国以来と考えても良いし共和国以来としても良い——ラテン世界の全域で(オック・北イベリア地帯を除く)支配的であった。ところが、パリ盆地、イタリア北西部ならびに南部、スペイン中部ならびに東部の特徴をなす自由主義的要素の方は、古代ローマの典型的な特徴ではいささかもない。ローマの始原の家族制度の特徴は明瞭この上ない権威主義であり、それが平等主義と組み合わさって、強力な共同体的家族構造を生み出した。今日イタリアに見出されるのはおそらくこの共同体型である。もっともその中心地はトスカーナ(つまりエトルリア)であって、ローマ市そのものではないが。しかし1500〜1900年のラテン世界で多数を占める家族型は、平等主義家族であって、これは厳密な意味ではローマ的なものではないのである。文化上の領域——ラテン世界——の安定性は、家族型の不安定性を妨げない。おそらく共同体制度から平等主義核家族制度への移行が起こったのだ」84頁→

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(承前)「財産不分割の規則が姿を現わし、定着するのは、農村の人口密度が上昇してからであり、それとともに不平等主義への転換が行なわれる。大開墾時代には土地がふんだんにあったため、土地の移譲の不平等主義的規則はいわば不要となっていた。やがて中世中期の<高密度世界>に至って、平等主義地帯と非平等主義地帯とが明確に姿を現わす。何故なら、ラテン地帯とゲルマン地帯とは、土地の希少化という問題に対して異なった形で反応するからである。かくして不平等主義への変化は、民族学的な地域の本質に従った形で起こるのであり、家族型それ自体が不安定で変化するからといって、人類学的地帯の安定性は揺るぎはしない。しかしどの時代をとっても、異なる民族学的地域における家族制度は互いに異なっているということ、ゲルマン系住民の最古の家族制度の中に、不平等主義への転換を促す要因がすでに存在していたということは認めなければならない。この要因が何かは本書では求めないことにするが」

訳語として「非平等」と「不平等」が混在しているのはイクない

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(承前)「とはいえ、人類学的地帯が安定して不動であるということは、必ずしもそれだけで家族型が安定していることを意味しない。家族型は不安定で流動するが、人類学的地帯の安定性はそれによって影響されることはない、という事態も考えられるのである。異なる領域を支配している複数の家族型の歴史は並行して進むが、それぞれ別々に進むのであり、次々と起こる変化によって制度が互いに類似してくる収斂現象に至るわけではない、と想像することもできる。この問題が架空のものではなく、現実性を持っていることを示す例を挙げてみよう。ゲルマン的非平等主義の問題である。非平等という価値とローマ化されなかったゲルマン人居住地とが合致することは、地図によって一目瞭然である。こうして西暦300〜500年という時期と、相続慣習の観察の時期である1850〜1900年との間に橋が架け渡される。しかし西暦800〜1000年の家族制度を観察したとしたら、このような一致は見られなかっただろう。その理由はまことに簡単で直系家族の不平等主義的規則はその頃にはまだ十全に形をとっていなかったであろうということである。おそらくその頃には平等主義的相続がゲルマン人の間での規範だったはずなのである」83頁→

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「要するに、家族制度の最終地図は、紀元前6世紀(エトルリア文明の絶頂期)から、伝統的にスペインのレコンキスタ終了の年とされている1492年までの間のいずれかの時点に安定化を見た、実に長い期間にわたる歴史過程を描きだしているのである。どんな仮説が立てられ、どんな説明が取り上げられたとしても、現在ヨーロッパを区分している人類学的地帯の確定は、本書の中で研究される歴史的期間より以前、つまり西暦1500年以前に遡ることは間違いない」82頁→

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「人類学的地帯というものが思っていたよりはるかに不動のものである…家族型の地図は人口が安定に達した時期の実態を示しているのであり、近代性によって一掃されたと思われた民族学的領域がここによみがえっているわけである。ゲルマン文化とラテン文化という観念は、16世紀をはるかに越えて、ローマによる征服とゲルマンの侵入の時代まで我々を連れ戻す。ラテン領域の中のマイノリティー的制度、つまりオック・イベリア地帯やイタリア中央部は、おそらくもっと古い起源を持っている。これらの地域の<人類学的な形成>はどうやらローマによる征服より以前に完了したもののようで、すでに生活慣習は充分な人口密度に担われて、その性格を明確にし、安定に達しており、何もローマ共和国ないし帝国が秩序をもたらすのを待つには及ばなかった。これらの地域はローマによる征服で初めて全般的に文明に到達したわけではないのである」81頁

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