新しいものを表示

(承前)「秩序あるものは必ず、秩序が乱れる方向に動く。宇宙の大原則、エントロピー増大の法則である。この世界において、最も秩序あるものは生命体だ。生命体にもエントロピー増大の法則が容赦なく襲いかかり、常に、酸化、変性、老廃物が発生する。これを絶え間なく排除しなければ、新しい秩序を作り出すことができない。そのために絶えず、自らを分解しつつ、同時に再構築するという危ういバランスと流れが必要なのだ。これが生きていること、つまり動的平衡である」297頁

スレッドを表示

「確かに食物(主に炭水化物)はエネルギー源として燃やされる部分もあるが、タンパク質は違う。私たちが毎日、タンパク質を食物として摂取しなければならないのは、自分自身の身体を日々、作り直すためである。…生命は絶え間のない分子と原子の流れの中に、危ういバランスとしてある。私が自らの生命論のキーワードとしている『動的平衡』である。それまで静的なものとして捉えられてきた生命観に、シェーンハイマーは、新しいパラダイム・シフトをもたらしたのだ。
 動的平衡の流れを作り出すためには、作る以上に壊すことが必要である。それゆえ細胞は一心不乱に物質を分解している。チカノーバー氏らは、シェーンハイマーの遺志を継いで、壊すことの重要性を明らかにしたのだった。
 生命にとって重要なのは、作ることよりも、壊すことである。細胞はどんな環境でも、いかなる状況でも、壊すことをやめない。むしろ進んで、エネルギーを使って、積極的に、先回りして、細胞内の構造物をどんどん壊している。なぜか。生命の動的平衡を維持するためである」296頁→

スレッドを表示

「生命とは絶えず動的であり、外部環境に向かって開いているものである。その開口部を通して、物質、エネルギー、情報が出入りしており、この出入りこそが生命の流れなのである。すなわち動的平衡とは、平衡とは言いながら、どこかに静的な到達点がある平衡ではなく、実は非平衡であり、生命とは開放形なのである」290頁

スレッドを表示

「いつも生体膜こそが生命の本体であり、生きているとは生体膜のことだと感じていた。生命とは生体膜に囲まれた空間の内部に抱かれているわけではなく、生体膜の運動自身が生きているのだ」290頁

スレッドを表示

「坂を登ろうとする努力が尽きたとき、細胞もしくは個体は死を迎える。つまり坂の下方にずるずると引きずり降ろされ、奈落の底——つまりエントロピー増大が極まった熱力学的な死の状態——に落ちる。
 生命とは何か、と問われたとき、この眺望を総合すれば、物質が下ろうとする坂を、絶えず登り返すという、あてどのない往還、とどまるところのないシーソー運動が繰り返されること、つまり『動的平衡』である、と言うことができる」286頁

スレッドを表示

「[ベルグソンの]『生命には物質の下る坂を登ろうとする努力がある』という、かの有名な言明自体は今も十分に有効である。この思考は、のちに、ノーベル賞物理学者アーウィン・シュレディンガーに引き継がれた。シュレディンガーは、ベルグソンを直接引用しているわけではないが、その歴史的著作『生命とは何か』(1944)の中で、エントロピー増大則の坂を、生命がいかにして登りうるか、という問いを中心的な課題として取りあげた」284-5頁

スレッドを表示

「ロハスの考え方は、何かを禁止したり、命令するものではない。むしろ、私たちの考え方にパラダイム・シフトをもたらすものだ。そのシフトとは、端的に言えば、線形性から非線形性へ、機械論から動的平衡へということである。
…私たちは線形性の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰しつつある」281-2頁

何ともふんわりしていて月並みですなあ😅

スレッドを表示

「生命が『流れ』であり、私たちの身体がその『流れの淀み』であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである」280頁

スレッドを表示

「全身の細胞が一つの例外もなく、動的平衡にあり、日々、壊され、更新されている。…
生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が38億年をかけて組み上げた、時間との共存方法なのである」277-8頁

捨てたり更新したりは物質代謝ではあるけれども、それが生命(生物)の本質かと言われるとやはり違う気がしますなあ…メイナード=スミスが興味を持った自己組織化のように、無生物であっても秩序を維持する(福岡の言い方では「サスティナブル」な)仕組みは存在するわけで

スレッドを表示

「生命はそのこと[エントロピーの増大]をあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが『動的平衡』である。
 しかし、長い間、『エントロピー増大の法則』と追いかけっこをしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。
 ただ、その時にはすでに自転車操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。…だから個体がいつか必ず死ぬというのは本質的には利他的なあり方なのである。
 生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命は必ず死ぬ。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。実に利他的なシステムなのである。
 したがって『生きている』とは『動的平衡』によって『エントロピー増大の法則』と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している」😅276-7頁

エントロピー云々はもろベルタランフィーの引き写しで、死の利他主義云々は小林武彦的😅

スレッドを表示

「シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転回をもたらした。その業績はある意味で20世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う[😅]。…
 生命と生命観に関して偉大な業績を上げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱に沈んでいった。
…流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象されていった。…
 動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は動的平衡に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する。
 実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能を持ち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。
…バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない」263-5頁

素朴なエコロジズムと悪魔合体😅

スレッドを表示

「『生命とは動的平衡にあるシステムである』という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果』なのである。
…サスティナブルなものは常に動いている。その動きは『流れ』、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境とのあいだに一定の平衡状態を保っている。
 一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。…
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって『進化』と呼べることに、私たちは気づくのだ」262-3頁

ポエムですな😅

スレッドを表示

「<『動的平衡』とは何か>
 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため『動的平衡』と訳したい。英語で記せばdynamic equilibrium…となる」260-2

スレッドを表示

「[シェーンハイマーのマウス実験で]標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、『流れ』の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのであった。
 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。
 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし。ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い『淀み』でしかないのである」260頁

スレッドを表示

「カルティジアン[機械論]に対する新しいカウンター・フォースとして、私は今、2つの可能性を考えている。一つは生命が本来持っている動的な平衡、つまりイクイリブリアムの考え方を、生命と自然を捉える基本とすることである。
 生命とは何か?
…DNAの世紀だった20世紀的な見方を採用すれば『生命とは自己複製可能なシステムである』との答えが得られる。確かに、これはとてもシンプルで機能的な定義であった。
 しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が『可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである』という古くて新しい視点である。…
 生命が分子レベルにおいても(というよりもミクロなレベルではなおさら)、循環的でサスティナブルなシステムであることを、最初に『見た』のはルドルフ・シェーンハイマーだった」257-8頁

スレッドを表示

「葉緑体の正体に関する研究はミトコンドリアのそれよりも少し先行していた。ざっとたどってみると、まず1883年に、細胞内の葉緑体が分裂によって増殖することが指摘され、共生体である可能性が示唆された」245頁

スレッドを表示

「この[マーギュリスの細胞内共生の最初の論文の]うち鞭毛については誤解だった(鞭毛にはDNAが見つかっていない)」242頁

スレッドを表示

「GP2遺伝子ノックアウト・マウスが何に役立ったのかと言えば、それは私をして、生命の動的平衡について思索を深める契機をもたらしてくれたことだと言える」191頁

ノックアウトマウスの実験に失敗したことで奇天烈な思想に至ったのだとすれば、かわいそうなところもありますなあ😅

スレッドを表示

「遺伝子に欠損があれば、その欠損を埋め合わせるように自ら平衡から平衡へ移動できるのが生命の本質的な特性である。これが生命を機械と隔てているのであり、生命の定義と言ってもよい」182頁

スレッドを表示

「私には何か重大な見落としがあったのだ。それは『生命とは何か』という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。
 さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなパーツは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたパーツと、それまでに作り出されていたパーツとのあいだに相互作用が生まれる。
 その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げていく。この途上、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのパーツが一種類、出現しなければ、どのような事態が起こるだろうか。
 生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。
 つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能——それを、私は『動的平衡』と呼びたいのである」175-6頁

現代の進んだ「機械」なら、この程度のことは難なくできるのでは…😅

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。