「ひとりの思想家が立ちあがって進化説をとなえて、そこでは物質が知覚性へすすむ動きと精神が合理性にむかう歩みをともどもに辿りなおすことができるとしたとき、外と内の対応が複雑化するさまを一段一段と追ってゆくことができるとしたとき、つまり変化こそものの実質そのものだとしたとき、万人の注視はそのひとに向けられた。スペンサの進化論が当代の思考をつよく惹きつけたゆえんであった。スペンサはいかにもカントから遠のいてみえるし、もともとカント主義に無知であったにもかかわらず、生物の諸科学に接したそもそものはじめから、哲学はどちらの方向に進んだらカント的批判を計算にいれながら歩みつづけることができるかをやはり感じとっていた。
ただしスペンサはこの道をすこし行ったばかりで引きかえした。発生をありのままに辿ることを約束しながら、なしとげたのはつぎのとおり全く別のことであった。スペンサの理説はなるほど進化論の名を冠していた。宇宙的生成の流れをのぼり下りするつもりだとそれは称していた。真相は、そこでは生成も進化も問題になっていなかった。
…スペンサ哲学を立ちいって吟味はできない。ただこれだけをいうなら、<スペンサの方法がいつももちいる技巧は、進化しとげたものをくだいた細片でもって進化をもとどおり構成することである>」423-4頁
「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある。…生命は有機体に釘づけにされ、有機体は生命を無生な物質の一般法則にしたがわせる。たしかにそうだとしてもやはり一切の経緯からいって、生命はそうした法則からのがれようと全力をつくしているかのようにみえる。生命には物理変化をカルノの原理できまる方向から逆転させる力はない。しかし少なくとも絶対的には、生命の振舞いかたはある力がひとり歩きをゆるされて逆の方向にはたらくときの様子に似ている。生命は物質変化の歩みを<とめる>ことはできないけれども、それを<遅らせる>ところまではゆける。実さい…生命の進化ははじめの衝力を伝えつづける。…こんにち私たちの目の前にあらわれたままの生命はそれにやどる相補的な諸傾向が分裂したためにここまで導かれてきたのであって、そこでは生命は植物の葉緑素機能にことごとく依存している。つまり生命をそもそもの分裂以前のはじめの衝力として見るならば、それは何かを貯蔵所にたくわえる傾向だった、ということになる」291-2頁
「混同のもとは、『生命』の秩序は本質的に創造であるのに、私たちにたいしてそれは本質そのままよりはむしろそのいくつかの附随性において現われるところにある。それらの附随性は物理や幾何の秩序を<まねる>もので、物理や幾何の秩序なみの繰りかえしを私たちに現じてみせて、その繰りかえしが類化一般化を可能にする。…生命は総体としては疑いもなく進化であり、すなわち不断の変形であろう。しかし生命が進行するためには生物を仲介にたてて、これに生命を預かってもらうほかない。幾千幾万ものほぼ相似な生物が時間空間中をつぎつぎに繰りかえしあらわれるからこそ、新しさというものがそれらの生物によって丹精されながら成長し成熟してゆく。…おなじ種の成員はあらわれる地点がちがい時刻がちがえばどこかで相違している。遺伝は形質をつたえるばかりでなく、形質の変様をおこす<はずみ>までもつたえる。そしてこのはずみこそは生命性そのものなのである。…繰りかえしは私たちが類化一般化するための土台として物質秩序に本質的でも、生命の秩序では附随的になる。物理秩序は『自動的』な秩序であり、生命の秩序は意志的なといわないまでも『意志された』秩序に類比されるものである」274-5頁
社会学と誤用進化論😅を中心に読書記録をしてをります
(今はストーン『家族・性・結婚の社会史』1977年)
背景写真はボルネオのジャングルで見た野生のメガネザル
https://researchmap.jp/MasatoOnoue/