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「真実をいうと適応は進化運動の紆余曲折は説明しても、その運動の一般的な諸方向やまして進化運動そのものの説明にはならない。町にゆく道はなるほど坂の斜面を上り下りさせられる。道は土地の凹凸に<適応する>。しかし土地の凹凸は道の原因ではなく、道を方向づけもしなかったのである。…道はひたすら町を目ざしており、直線になりたかったかもしれない。生命の進化とそれに通る環境とについても同じことである。異なるのは、進化は一本道を描かぬところ、進化はそれぞれの方向をとりはするが目的を目ざしはせぬところ、最後にそれは適応のなかまでも創意を持ちこんでやまぬところである」132-3頁

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「進化の必要条件が環境への適応であることについては私になんの異存もない。種は自分にあてがわれた生存条件に折れて出ないなら消滅することはみえすいている。けれども、外部環境は進化が念頭におかねばならぬ勢力だとみとめるのと、それを進化の主導原因だと主張するのとは同じでない。後者は機械論の主張である。それは根源のはずみの仮説、すなわち生命にいよいよ複雑な形態をとらせながらいよいよ高い使命にそれをつれてゆくある内的衝力を仮定する私の考えを頭からしりぞける。それにもかかわらずこのはずみは歴然としている」132頁

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「進化運動の研究とは、末ひろがりの諸方向をある数ほぐしわけ、そのひとつびとつに起こった出来事の重要さを評価すること、一言でつくせばはなればなれになった諸傾向の性質を見さだめてその混合量をきめることであろう」131頁

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「[生命の進化の]道中に生じた岐路の数はおびただしかったが2、3の幹線のほかは多くゆきどまりであった。それにこの幹線そのもののなかでもただひとつの脊椎動物をずっと人間までのぼりつめる線ばかりが、生命の大きな息吹をらくに吹きぬかせるだけの広さをもっていた。たとえば蜜蜂や蟻の社会を人間社会とくらべるとき、私たちはそういう印象を受ける。蜜蜂や蟻の社会は驚くほどよく訓練され統一されていながら、凝結している。人間社会にはあらゆる進歩の道がひらけているものの、分裂があり自己闘争の絶え間がない。…かりに社会生活への衝力というようなことを譬えとしてではなく語ってよいなら、こういうべきであろう。その衝動の主力は人間にいたる進化の線上をはこばれてき、残りは膜翅類に通ずる道にあつめられた。つまり蟻や蜜蜂の社会には私たちの社会を補う面が出ている。…社会にむかう特殊な衝力というようなものはありはしなかった。あるのは生命の一般運動だけで、それが末ひろがりの諸線上につねに新しい形態を作りだしてゆく。もしもそのなかの2線上にそれぞれ社会があらわれるはこびになっているならば、それらの社会にははずみの共通性とともに道の開きもあらわれるはずであろう。したがってそれらの社会は2系列の性格を展開する」130-1頁

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「生命は傾向なのであるが、傾向はその本質からいって束状に展開するもので、大きくなることだけで方向を扇形にひろげて生命のはずみをそれらの諸方向に分かつ。…自然はさまざまな傾向が大きくなって枝分れしたままに保存しておく。自然はそれらの傾向を末ひろがりに開いたさまざまの種の系列に仕立て、各系列をべつべつに進化させる」130頁

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「榴弾が破裂するさいのそれぞれ特殊な砕けかたは、その榴弾につまっていた火薬の爆発力とその力にたいする金属の抵抗とから同時に説明される。生命が個体や種に砕けるばあいも同様である。その砕ける原因は2系列をなしていると思われる。生命がなまの物質のがわで出あう抵抗と生命のしのばせている(さまざまな傾向が不安定に平衡しているための)爆発力とがそれである」128頁

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「生命は何であるよりもまずなまの物質にはたらきかける傾向なのだといおう。このはたらきかけの方向はもちろん前もってきまってはいない。そこから、生命は進化の途上に予想もつなぬ多様な形態をまきちらすことになる。とはいえこのはたらきはいつも偶然性の性格を多少とも高い度合で帯びており、ともかくも選択のきざしがそこには含まれている」126頁

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「あるひとは各粒子の位置の決定を、附近の粒子がそれにおよぼす作用に由来させるであろう。かれは機械論者であろう。他のひとは、総体にわたる計画が要素的な作用を細かい点までつかさどっていたと考える。これは目的論者であろう。ところが真相はただひとつの不可分な行動が、やすり屑をつきぬける手の動きがあるにすぎない。…言いかえるなら、機械論も目的論もここは出る場処ではなく、ある<独特な>説明のしかたに訴えるべきであろう。…
…要素の秩序はかならず完全無欠である。秩序は半端ではありえない。くどくなるが、秩序を生みだす事象の過程に部分がないからである。ここのところを機械論も目的論も考慮していない」124-5頁

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「細胞は機械の部品になり、有機体は部品の寄せあつめとなろう。そして個々の部品を組みたてた要素的な仕事は、全体を組織した仕事の真の要素と見なされることになろう。これが科学の見かたである。私の意見では哲学の見かたはそれとはまったく異なる」123頁

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「私たちは有機組織を<製作品>なみに表象せずにはいられぬ…しかし製作と有機化とは別のことである。前者は人間に固有な作業である。その要点は、材料を諸部分に裁断してそのひとつが他にはまりこんでそこから共同のはたらきが獲られるようにしておいたものを、寄せあつめることにある。ひとは諸部分を、あらかじめその観念的な中心となっていた働らきのいわば周囲に配置する。つまり、製作は周辺から中心に向うのであり、あるいは哲学者風にいえば、多から一にすすむのである。これに反し、組織化の仕事は中心から周辺に向う。それはほとんど数学的な点にはじまり、この点のまわりに同心円の波をたえず拡大させながらひろがってゆく。製作の仕事はあつかう材料の分量が多ければそれだけ効果的である。そのやりかたは集中と圧縮による。これに反し、有機組織化のはたらきにはどこか爆発のようなところがある。出発にさいしそれに必要な場処はできるだけわずかで物質も極小でなければならぬ。有機化する力はいやいや空間に入りこんだとでもいった風にしかみえない」121-2頁

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「機械論と目的論はふたつながら、事象そのものたる運動のかたわらを素通りしてしまうであろう。運動はある意味で位置やその秩序より<以上>のものである。…機械論も目的論もゆくべきところまで行っていない。しかし別の意味では機械論と目的論はどちらも行きすぎている。けだしふたつながらヘラクレスのもっとも辛い仕事を自然に割りあてて、無限に複雑な無数の要素を組立てて見るという単一な行為に仕上げさせたかったのに、実さいは自然は眼を作るさいに私が手を挙げる以上の苦労はしなかったからである。自然の単一な行為はおのずから無数の要素に分かれ、それをあとからひとが見て同一目的に向って配列されていることに気づくのである」121頁

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「機械論が目的論の擬人的性格を非難することには一理ある。しかし機械論もまた自分では気づかずに、同じ方法をただ片輪にしただけで用いている。なるほど機械論は目的の追求や観念的なモデルを一掃した。けれども機械論もやはり、自然は工作する人間なみに部分を取りあつめながら仕事をすすめたことにしたいのである。とはいえ胚子の発達をひと目でもみたら、生命の営みぶりはそれとはまったく異なることを機械論は見せつけられたであろう。<生命の手のすすめ方は要素の連結と累加によらず、分離と分割による>。
 そのようなわけで、機械論と目的論の見かたはふたつながら乗りこえられなければならぬ。どちらももとを正せばひとの仕事をする姿にたよって人間精神がゆきついた見かたにすぎない。…器官のかぎりない複雑さと機能の極端な単一さ、このふたつの対比こそは私たちの目を開いてくれるにちがいない」118-9頁

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「私は生命の<根源のはずみ>が胚のひとつの世代からつづく世帯へと移ってゆき、成体となった有機体は胚から胚への媒介をつとめる連結符だと考えている。このはずみこそは進化の諸線に分たれながらもとの力をたもって、変異の根ぶかい原因となるものである。少なくとも、規則的に遺伝し累加されて新種を創造する変異を、それはひき起こす」117頁

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「なるほど有機的世界の進化が全体としてあらかじめ決定されているはずはない。それどころか有機的世界においてつぎからつぎへと別な形態が不断に創造されてゆくところに、生の自発性は発露しているというのが私の主張なのである。けれども、この非決定性は完全なものではありえない。ある部分が決定性に残されているはずである。…私がアイメルと別れるのは、物理的並びに化学的な原因の組合わせがありさえすれば結果は確実に出てくる、と主張されるときである。私はそれに反対して、もしそこに『定向進化』があるならば、心理的原因が入りこんでいるのだということを、眼という適切な例で立証しようとこころみてきた」116頁

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「新ダーウィン派の説くところでは、変異の本質的な原因は個体のになう胚に内属する変差であってその個体の重ねてきた振舞いではないとされるが、その点はたぶん正しいであろう。私がこの派のひとびとについて行きにくくなるのは、この生物学者たちが胚に内属する変差をひたすら偶然的で個別的とするときである。変差は胚から胚へと個体を介して伝わるある衝動の発達したものであり、したがってただの偶然ではないこと、またおなじ種の現員の全部か少なくともそのある数かにおなじ形で現われることはきわめてありうること、などを私としては信ぜぬわけにはゆかない。それに、<突然変異>説も早くからダーウィン説をこの点で立ちいって修正している。そのいうところによれば、種は長期間を経たある与えられた時機にいたると、変ろうとする気運にその全体が乗っとられる。してみると<変ろうとする気運>は偶然ではないのである。…新ダーウィン派も変異の周期が決まっていることは認めかかっている。そうすると少なくとも動物では変異の方向もまた決まっていてよいことになろう。ただしその決まる程度はいずれ示さねばならぬ」114-5頁

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「スペンサがまず獲得形質の遺伝の問題を自問することからはじめたならば、このひとの進化論はおそらく全然べつの形をとったのではなかろうか。もしも個体の身につけた習慣はごく例外のばあいにしか子孫に伝わらぬとすると(私にはそうらしく思える)、スペンサの心理学はことごとく書きなおされねばならず、その哲学の相当な部分が崩壊することとなろう」107頁

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「現在おこなわれているあらゆる型の進化論のなかでは新ラマルク説だけが内的で心理的な発展原理を、ぜひとも頼りにするほどではないにしてもとにかく容れる幅をもったものである。それはまた、たがいに独立な発展線上に複雑でしかも同一な器官が形成されるわけを説明できそうな唯一の進化論でもある。実さい、おなじ環境を有利に用いようとするおなじ努力はおなじ結果に導くこと、ことに外部環境の課する問題がひと通りの解しかゆるさぬたぐいのものであるときそうなることは納得できる」105頁

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「おびただしい数の小原因のふた通りの蓄積からこのように同じ結果が生ずるということは、機械論哲学のたよる原理になんとも矛盾している。…
 否応でもある内的な方向原理に訴えないかぎり、結果のこのような収斂はえられないであろう。そうした収斂の可能性は、新ダーウィン派のたてた目に見えぬ偶然変異の説にも、急激な偶然変異の仮説にもあるとはみえないし、外力と内力との一種機械的な合成によって諸器官の進化に一定の方向があてがわれるという説からさえうかがえない」103-4頁

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「アイメルの主著は教えるところが多い。ひとも知るようにこの生物学者は丹念に研究した結果、変形がおこなわれるのは外から内へ向う影響がゆるぎない一定方向に連続的にはたらくからであって、ダーウィンの唱えたような偶然変異によるのではないことを証明した。…原因がはたらきうるのは<押す>か<解発する>か<ほぐす>かによる。…この3つの場合をたがいに区別するものは、原因と結果のあいだの連帯性の強弱である。第1の場合では、結果の量ならびに質は原因の量ならびに質とともに変化する。第2の場合では、結果は量質いずれも原因の量質とともに変化しない。結果は不変なのである。最後の第3の場合には、結果の量は原因の量にしたがっても、原因が結果の質に影響することはない。…原因が結果の<説明になる>のは、実は第1の場合のみである。他のふたつの場合には、結果は多少なりとも与えられており、その先行物としてもち出されるものは結果の原因よりはむしろ——もちろん種々の度合での——機会なのである。…アイメル自身もときに因果性を確かにこの意味[第1と第2の中間]に解して、変異の『万華鏡的』な性格を語り、また有機化物質の変異は無機物が一定方向に変異するのに似て、ある一定方向におこなわれるという」100-2頁

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「さきに私は『適応』の語の曖昧さを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌りこむのと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。…自然そのものが私たちの精神をこの2種の適応を混同するように仕向けているように見える。というのも、自然は能動的に反動する仕掛をいずれは組立てねばならぬ場合、ふつうまず受動的な適応からはじめるからである。…生きた物質が環境を利用するには。まずそこに受動的に適応するほかに術はないように思われる。運動を導かねぱならぬとき、生命ははじめまずその上に乗る。生命は入りこみながら手を打つのである」98-9頁

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