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「進化を決定する偶然変異が目にみえぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に——未来種の精霊に——お縋りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引受けてくれまい。他方また偶然変異が急激なら、その突発した全変化がともどもに同一機能の遂行を目ざして補いあわぬかぎり、もとの機能が引きつづきいとなまれることも、あるいは新しい機能がそれにかわることもないであろう。もういちど善霊にお詣りして、さきほどは継時的な変異に<方向の恒続性>を確保していただいたように、こんどは同時的な変化に<収斂性>を授けていただく必要があろう。いずれの場合にも、たがいに独立な進化の諸線上に同一構造が並行に発達する事実は、偶然変異のただの蓄積にもとづくものではありえないであろう」96-7頁

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「帆立貝の眼にも網膜、角膜、細胞構造の水晶体があらわれていることは、私たちの眼と同様である。…軟体動物と脊椎動物とが共通の幹から分れたのは帆立貝の眼ほどにこみ入った眼があらわれるずっと以前だった、ということではみな一致するであろう。ではそのような構造の類似はどこから来るのか。
 この点に関して、ふたつの相反する進化論体系の説明…ふたつというのは、純粋な偶然変異の仮説と、変異は外部環境の影響で一定方向にととのえられるとする仮説とである。…私は、ひとびとのもち出す変異は大きいにしても小さいにしても、偶然によるものであるかぎりそれは…構造上の類似の説明にはなりえない、ということを示してみたいと思う」89-91頁

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「目的性を弁護するひとがいつも重視してきた例を考察しよう。それは人間の眼の構造である。…構造と器官のあいだに作用反作用を果てしなくつづけさせれば、眼がだんだんと形成される過程は、私たちの眼ほどに入りくんだもののばあいでも、機械的以外の原因をもちこまないで説明されることになろう」88-9頁

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「一言でいうと、いわゆる適応が環境の凹状で与えるものを凸状にくりかえすだけの受動的なものであるなら、適応はひとが作ってほしいようなものを作ってくれないであろう。また適応は能動的で、環境の出す問題に計算ずくで答えることができるといい切るひとがあれば、そのひとは私がはじめに指摘しておいた方向に私よりもさき走り、私からみても行きすぎている。…ひとは個々の特殊なばあいには、適応の過程は有機体が外部環境を最高度に善用できるための器官を組み立てる努力でもあるかのようないいかたをし、そのあとで適応一般について、それは環境の押型そのものを無差別な物質が受動的に受けとったものでもあるかのように語るのである」85-6頁

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「適応とはもはや不適者の消去というだけのものではなくなるであろう。…有機体がその住むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流しこまれそこから形態を受取るというふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。まだ形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。生命にとっては環境から利益を引きだすこと、環境中の不都合なものを中和し有益なものは利用すること、つまり外部の作用にたいしてそれと似もつかぬ器官を作って反応すること、が必要になってくる。ここでは、適応するとはもはや<繰りかえすこと>ではなく、それとはまったく別物の、<応答すること>である」84-5頁

ニッチ構築的な

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「<生命はさまざまな向きの進化の線上に似もつかぬ手段である種のおなじ器官を製作するものだ、ということがかりに確立できれば、純粋な機械論は論破されうるものとなり、また目的性も、私の解する特殊な意味でならば、ある面で立証できることになろう。なおその立証力は、私のえらんだ進化の諸線の開きかげんや、その線上に見られる相似な構造体のこみいりぐあいに比例することであろう>」81頁

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「生命はその発現以来、おなじひとつのはずみが進化の末ひろがりの諸線に分れながら続いてきたものである。ひとつびとつ創造されたものがつぎつぎにつけ加わって、何かが成長し発展してきた。発展したからこそ、さまざまな傾向はある点よりさきに伸びるためには軋轢がさけられなくなり、その結果たがいに分離するにいたったのである。…岐路はいくらでも生じたし横道もつぎつぎに開けて、諸要素は独立にそれらの道をわかれて伸びていった。それにもかかわらず各部分を運動しつづけさせているものは、依然として全体にわたる元のはずみなのである。こう見てくると、部分には全体のなかの何かが存続しているはずである」80頁

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「機械論では進化を説明するに十分でないとして、この不十分さを確証する方法は古典的な目的概念に執着することではなく、いわんや目的概念を切りつめたりゆるめたりすることでもなく、かえってそれを越えてすすむことである」79頁

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(承前)「実は知性は生命をみた動きのない断片的な眺めにすぎず、本性上つねに時間の外にたっている。生命というものは進行し持続する。…私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、けっして未来を予料するものの意味にとってほしくない。それは過去を現在の光でみたある種の観照なのである。…目的概念は生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている。知性は、少なくとも私たちの内にみられるような知性は、進化がその経路において仕上げたものである。それは何かもっと広いもののなかで切りとられたもの、というよりはむしろ、せり出しも奥行きもある事象のどうしても平面化した投影にすぎぬ。本物の目的論ならこのようなもっと幅のある事象をこそ再構成するはずであろう。…その事象が知性からはみ出るからこそ、似たもの同士をむすびつけ繰りかえしをみとめこれを生産までする能力をこえるからこそ、それは疑いもなく創造的なのである」77-8頁

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「生哲学は過激な目的論よりは漠とした形ながら、有機的な世界をやはりひとつの調和した全体として私たちに再現するであろう。しかしこの調和は従来いわれてきたような完全なものからはほど遠い。そこにはいくらも不調和が入りこめる。おのおのの種が、各個体すらが生命の全衝動から特定のはずみだけを取りとめて、そしてこのエネルギを自分一個の利益にもちいようとつとめる。これが<適応>というものである。種や個体はこのように自分のことしか考えない。他の生命形態との軋轢がここから起こることになる。してみれば、調和は事実としては存在しないで、権利として存在するのである。…調和は、というよりはむしろ『相補性』は大まかに、状態よりは傾向のなかにあらわれるにすぎない。…調和は衝動の同一なことにもとづくので、共通な志向にもとづくのではない。生命に人間的語義での目的というものをもたせようとしても仕方がない。目的をとやかくいうのは、モデルという先在していてあとは実現さえすればよいものを考えることである。したがってそれは底を洗えば、一切は与えられており、未来も現在から読みとることはできると仮定することになる。それは、生命は運動するさいにも全体としても私たちの知性と同様に手をすすめるものだ、と信ずることである」76-7頁→

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「生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちのなかに沈めていったさまざまな単純な観念を組合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に、生きた操作の名残りは操作そのものにどうして等価でありえようか。…私たちは進化の到達点のひとつを占めており、それは主要な点にはちがいないが唯一のものではない。しかも折角その点を占めながら、私たちはそこに含まれているものを残らず捉えはしない。…私たちのあつかうのは進化をとげたものつまり結果だけにきまっており、進化そのものすなわちそうした結果をもたらす行為は私たちにはあつかえぬだろう。
 以上が私の目ざしてゆく生命の哲学である。この哲学は機械論と目的論をともに同時に乗りこえることをうたう。しかし…それは前者よりは後者の教説に近い」75-6頁

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「私たちの思考を閉じこめている過激な機械論と目的論の枠から出てみよう。事象はただちに新しいものの絶えざる湧出となって私たちの前にあらわれる。…私たちの振舞いの展開には、いたるところ機械性がありいたるところ目的性がある。…機械論と目的論とはこのばあい私の振舞いを外から撮った眺めにすぎない。振舞いのなかから知性的なものをそれらは取りだしたのである。…自由な行動は観念と不可約であって、その『合理性』はほかならぬこの不可約ということで定義されねばならない。この不可約性があるから、ひとは自由な行動のなかに知的なものをいくらでも発見できるのである。これが私たちの内的展開の特徴である。それはまた疑いもなく生命進化の特徴でもある」72-3頁

「不可約」の原語は?

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「目的原理を厳格に適用すると、機械因果の原理のばあいと同様になり、『一切は与えられている』という結論にみちびかれる。この両原理はおなじ要求にたいする答として、同一事をふた通りの言葉で述べているのである。
 ここに、両原理が心をあわせてさらに時間を抹消した理由もある。…一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。…知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることことにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を<考え>ないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。純粋持続のなかで私たちをはじめ一切の事物は進化しているとの感じがひかえていて、それが本来の意味の知的表象のまわりに定かならぬ暈を、闇のなかへぼかしながら描きだす。機械論と目的論とは中心にきらめく光の核しか考えに入れぬ点で一致する」70-1頁

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「過激な目的論のあやまりは、過激な機械論ももとよりそうなのであるが、私たちの知性に自然なある種の概念を広く適用しすぎるところにある。…人間の知性は人間的行動の要求にあわせて作られている以上、それは意図しながら計算しながらひとつの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに、機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作をすすめる知性なのである。ひとびとは自然を数学的法則に支配される巨大な機械のように想像したり、あるいはひとつの計画の実現をそこに見たりするが、いずれにせよそれらは同じ生の諸必要から精神のなかに生じてたがいに補いあっているふたつの傾向が、極端にまでおしつめられたものにすぎない。
 ここに過激な目的論が過激な機械論におよその点で酷似するゆえんがある。どちらの教説も事物の経過にはもちろんのこと、たんに生命の発展のなかにすら、予見不能な形態創造というようなものは見たがらない。機械論は事象を類似あるいは繰りかえしの相面でしかみない。つまり機械論を支配するのは、自然界では似たものが似たものを生むばかりだというあの法則である。機械論の宿す幾何学がはっきりと浮きだしてくれるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造のばあいにかぎってもいよいよ容認できなくなる」69-70頁

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「今日の生気論には区別すべきふたつの面がある。一方には純粋な機械論は不十分だとする主張があり、この主張はたとえばDrieschやReinkeのような科学者から唱えだされるとき高い権威をもつにいたる。他方はこの生気論は機械論と重なりあうとする仮説である(Drieschのentéléchies, Reinkeのdominantesなど)。両面のうち前者の方が意義深いことは論をまたぬ」68頁

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「実は生気論の立場をきわめてむずかしくしているのは、自然界には純粋に内的な目的性もなければ、絶対的に切りはなされた個体性もないという事実なのである。…目的性をちぢめて生物の個体にかぎろうとしても仕方がないであろう。生命の世界に目的性がいくらかでもあれば、それは生命全体を不可分なひと抱えで包括しているのである。…そこで私たちは、目的性の単純な否定か、それとも、有機体の諸部分を有機体そのものに並べこむばかりでなくさらに各生物を残りの生物全部に並べこむ仮説か、のいずれかをえらばねばならぬ」67-8頁

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「実さい、きわめて複雑でこの上なく調和した有機体を考察してみよう。あらゆる要素が全体の最大善のために協心している、と私たちは教えられる。そうだとしよう。しかし忘れてはならぬのは、各要素がいずれもある場合にそれ自身ひとつの有機体でありうること、そしてこの小さな有機体の存在を大きなものの生命に従属させることで私たちは外的目的性の原理を受けいれているのだということである。こうして、あくまでも内的な目的性というような観念は自己崩壊する。有機体は、それぞれに自分のために生きている諸組織からなる。その組織を作っている細胞がまたある自主性をもつ」66頁

マルチレベル淘汰説みたいな発想

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(承前)「目的論はいちどきにはやっと一個の生物しか包めぬところまでちぢまった。身をちぢめれば打たれる面の露出が少なくてすむと考えたのである。
 実は、それこそいよいよ打撃に身をさらしていたのである。やはり過激にみえるかも知れないが、私のテーゼはこうである。目的論は外的であるか、でなければまったく何ものでもない」65-6頁

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「有機的世界にかぎってみても一切がそこでは調和であることの証明は一向にやさしくならぬ…自然は生物をたがいにせめがせる。自然はいたるところで秩序にならべて無秩序を、進歩にならべて退歩を見せつける。けれども、物質の総体についても確言できぬことが、ひとつびとつの有機体を別々に取りだしてみるならば真にはならないであろうか。ひとはそこに見ごとな仕事の分相、部分のあいだの霊妙な連帯性、無限の錯綜における完全な秩序をみとめぬであろうか。この意味で、生物はおのおの自分の実質に内在するひとつの計画を実現しているのではなかろうか。そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。なにか<外的な>目的性があり、それにあわせて生物はつぎつぎに凭れあいになっているとするような考え方であると、ひとは受けいれないし、笑い草にさえしかねない。草は牝牛のために、子羊は狼のために作られた、と想像するのは馬鹿げているという。けれども、<内的な>目的性というものがある。それによると、生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけて知性によって有機的に組織されている。これが、すでに久しく古典的な目的観念である」65頁→

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「過激な目的論もまた受けいれられぬように思われる。目的論の教説には、たとえばライプニツに見られるような極端な形になると、事物や存在はひとまずたどっておいたプログラムを実施するにすぎぬ、との考えがこもっている。けれども宇宙には思いがけないことが何もなく、発明も創造も全然ないなら、時間はやはり無用になる。機械論の仮説と同じことで、ひとはここでもやはり<すべては与えられている>ことを前提しているのである。この意味での目的論は向きの逆になった機械論にすぎない。それは同じ前提から生気を吹きこまれている。…
 そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることはけっしてないであろう。そのある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。目的説の原理は心理的な本質のもので、柔軟をきわめている」63-4頁

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