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「形質の発現がさまざまな因子の影響を蒙るということも、遺伝現象の性格が動的である結果の一つの現われだ。…
…遺伝子として確認できるのは、ある色、ある形をした眼・翅・剛毛などの一定の形質や器官を自分の力だけでつくりだすような単位だの原基だのではなく、むしろ全体としては対応しあうゲノムの間での差異の表現である。染色体の一定の座にある巨大分子すなわち遺伝子の性質に応じて、度合はいろいろであるにもせよ、ゲノム<全体>が生物体<全体>をうみだすのである。…ゲノムは、めいめい別々に働く独立的原基の集合体とかはめこみ細工とかいうものではない。ゲノムは全体として完全な生物体をつくりだす一個体のシステムであり、このシステムの一定部分——いわゆる遺伝子たち——の性質が変わるにつれ、生物体のつくりも変わるということなのだろう」79-81頁

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「完成した動物体はけっしてあれこれの形や色の眼・翅・剛毛がただ集まっただけのものではない。動物は一定の体制をもっている。その体制に対応するどんな排列[ママ]をも、遺伝子システムには見いだされない。したがって《遺伝子》ないし《遺伝原基》の概念にどんな意味があるのかということは、教科書では通常避けられていることであるけれども、根本的な疑問のたねになる。
 まったく、遺伝の分野でも有機体論の立場は欠くことのできぬものであって、遺伝学はこのところ有機体論の方向へと発展してきている。ここでもまた静的な解釈から動的な解釈へ移らねばならない。つまり、遺伝というのは遺伝原基と一定の形質とが機械的なやりかたで結びつているところの仕組みではなく、むしろ生理学的な現象であって、これに遺伝子が一定のやり方で干渉していると考える立場が必要なのである」😅 78-9頁

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「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

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(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

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「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

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(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

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(承前)「胚がほとんど未分化の細胞の状態から高度に体制化された多細胞の形に移ってゆくことは、システムが内在する原因によって、次第に高い体制段階に移ってゆくことを意味する。このような動きは、物理学的には一見、逆理のように思われる。物理学的なシステムは、自分から秩序を増してゆくわけにはいかない。むしろ第2法則はどんな物理学的閉鎖系についても、現象が秩序の程度を減少させるような方向に進むことを強要している。実際、自己分解するのに任された屍体はそのようにふるまう。だが生きた胚については、その条件は充たされてはいない。生きた胚が前提としているのは第1に、<より>高次の秩序段階へと導くべき順路として、特異的な体制が存在しているということである。第2に、胚は閉鎖系として行動はしていない。胚は秩序を高めるために、いつでもエントロピー原理によって一部分ずつ消尽されていくエネルギーを補充している。このような体制は…前成的・静止構造的にではなく、動的なものとしてのみ把握できる。エネルギー的にみれば発生とは仕事をすることで、この仕事は胚中の貯蔵物質(卵黄)の酸化によってまかなわれる」68-9頁→

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「発生はひどく神秘めいた過程で、物理=化学的分化とは別もののようにも思われる。…
…発生のとき物理=化学的過程がおきていることは必要ではあるが、胚の体制化や形態形成の問題はこれによっても解ききれないのである。
 胚発生の問題を物理=化学的に説明しようとする要求は、もっと一般的な見地から提出することもできる。すなわち個々の過程を具体的に説明するのではなく、物理学・化学で知られている《物質的ゲシュタルト》…の原理に還元できるという原理上の可能性だけを、望もうとするのである。ゲシュタルトとは、一定の平衡状態に達していて物質的全体性を示すシステムをいうものである。だが、ここでも特殊な難点にぶつかる」67-8頁→

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(承前)「さてここで<第3の選言命題>が現われる。胚の全体性を説明するのに、無生物界で知られている原理や法則性でまにあうだろうか? あるいはまた全体性とは生物に特殊なものであるか?
 第1の、物理法則性でよいという案のあらすじを、はじめて大成したのはゴルトシュミットであった。彼によると、発生の本質というのは触媒類似の化学作用が遺伝子からでてきて、胚の原形質や胚の細胞区分を分化させることである。このさい物理=化学的平衡過程にもとづいて、ちがった種類の現形質が局在して《化学的分化》によって器官形成区域が現われるようになる。基本的の[ママ]化学分化が確立しないうちは、胚は単一な物理=化学的システムである。だから調節胚ならば攪乱のあとでも平衡状態が回復され、調節がおきるのであって、エンテレキー概念など考えだすことはない。…
 発生の化学要因についても、平衡状態という仮定についても、まだとても精細に定義できるところまではきていない。けれどその後の新しい研究によってゴルトシュミットの見解の正しさが証明された」65-6頁

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(承前)「胚の物質系につけ加わって、それが到達すべき典型的な最終生成物の形を導きだすような原理を仮定することは、いま述べたように第2の選言命題から排除しなければならない。つまり発生過程に現われてくる《全体性》は内在的なのである。胚はヴァイスマン説と生気論がともに基盤としたように、はじめから発生機構や原基の集合ではなくて、統一したシステムであることを示している。生気論ではこの統一化のための仕組みを操るものは、ただ外部のエンテレキーだけであると信じたのであった」65頁→

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「発生の過程は《必然性の無情な勤勉さ》でおきるのであって、結果が良くても悪くても、目的に合っても合わなくても、また元来目的などにはおかまいない。エンテレキーのほうとしては典型的な結果を目ざしているのだが、使える材料が不十分なためにに[ママ]、その目標が妨げられる、などということではけっしてない。…使える道具がすくないので、エンテレキーの威力が制限されているのではなく、むしろ現象は物質系の条件によって必然的にきめられるのだ。それ自体としてはおこることが可能な過程を《留保》するということが、ドリーシュにとってはエンテレキーの主要課題であったことを思いだせば、過剰再生に関する議論はとくに決定的なものである。ドリーシュの言い分によれば、正常な発生の場合にも、調節的発生のばあいにも、留保によって過程のうちのあるものが止められてできるだけ完全な全体ができあがるようになるのであ。過剰再生体や、その他の奇形体は、エンテレキーがまるで無力なことを示している」64-5頁→

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(承前)「さてここで<第2の選言命題>、あれかこれかがくる。《全体》とは、胚の物質系につけ加わる要因なのか、またはこの物質系の配置に内在するものなのかということである。第1案は生気論、第2案は自然科学的な全体性説である。
 ドリーシュが、自分の実験からどんなふうにして生気論に行きついたかは、前に…説明したとおりである。このことに関連しておもしろいのは、生気論に対する認識論的・方法論的な反対ではなくて、これが経験的に打破されたことだ。
 決定が依存している《全体》とは、将来到達されるべき特有の最終産物ではないことは、多くの経験から明らかである。全体とは自己発展するシステムの総合状態であって、その時その場に応じて、具体的に示すことができる。もちろん決定がまだおこらぬかぎり等結果性(等終局性…)がなりたつのであって、始めの状態は違っていても、到達した結果は同じになる。けれども発生の経過は、決して《目標めざして》進むものではない。《目標めざす》とは、その目標を予見してエンテレキーが働きでもしているように、できるかぎり有意味・典型的な結果が生みだされるということである。なにがおきるか、調節が行われるかどうか、そしていつどのように行われるかは、その時の条件によって一義的に決まることだ」63-4頁

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「発生能力つまり《ポテンシャル》は、実最に正常の発生で行われるところよりも一般にはるかに大きくて、発生初期の胚はある範囲では《等ポテンシャル・システム》[等能体系]である。つまり各部分それぞれが何でもできるし、同じことができる。すなわち完全な生物体を作りだせるのである。
 さて次にその時々のポテンシャルは、何によって決まるのかという問題がおこるが、ドリーシュの設定した原理がこの疑問に答えてくれる。発生過程で、ある細胞が行うことは、発生系全体の中で細胞がその時占めている場所によって決まる。…
…発生はまえもって原基に割当てられているのではない。胚の各部分は全体との関係でしだいに一定の発生方向にきまってくるのだ。そこで発生はたとえ見かけは前成的でも、原理的には後成的である。
 これで第1案、つまり前成説か後成説かということには答が与えられた。発生は独立の原基や発生機構の作用ではなく、全体に支配されるのである」61-3頁→

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ギヨエテ1812年の日記「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子論的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」59頁

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「生物共同体を単一性あるいはシステムとしてみてよいものだろうか? 各項はたえずたがいに滅ぼし滅ぼされあって闘っているのではあるまいか? その答えからは次のような洞察が導きだせる。各部分の不断の闘いは、ルーの表現にならえば、生物共同体であれ、生物個体であれあらゆる生物学的システムの中に存在している。…生物個体も、超個体的生物統一体も、すべて生物学的システムにおいては統一体が部分の間で相争っていることがわかる。統一体をこういうふうに考えることは、ヘラクレイトス、ニコラウス・クザヌスまでさかのぼるあの深い形而上学的洞見の反映である。すなわち世界も世界の各個物も、それ自身対立物の統一(coincidentia oppositorum)であって、たがいに反抗し闘争しながら、しかもより大きな全体を構成し保ってゆくということである。この生物学的問題から、弁神論と世界悪という永劫の問題を見る展望がひらける。これは、たがいに相争う部分が個体化する(不可分化してしまう)ことからおこるのであって、各個体に対しては滅亡を、しかしながら全体にとっては前進する実現化を意味するところの闘いである」58頁

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「人間が手をいれない自然では動植物が生物学的平衡にしたがって、生物共同体を保っている。すなわちどの種も自分の自然の敵〔天敵〕をもっているから無制限には殖えられず、だからといって遺伝資質や外的条件が一変せぬかぎりは、死にたえることもない」56頁

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「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
 最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
 生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁

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「超個体的体制の世界
 生物体は空間的にかぎられた個々の存在として私たちの前に現われる。だが彼ら自身はもっと高次な単位の項(部分)であって、その単位体とは時間に関していえば<種>である。おのおのの生物体は増殖によって他のものから派生したり、また新生物体の源流になったりしながら超個体的結びつきのそれぞれ一員となっているが、同様に空間的にも生命の段階構造は生物個体のところで終るのではなく、個体を越えてさらに高次の単位がある。
 空間的高次単位に属するのはまず同種の個体の社会で、これは動物集団とか動物国家とかになって現われている。…専門化した動物個体の動きは、全社会を保ってゆくために協調し整頓されている。ちょうど細胞や器官の働きが生物体〔全体〕に対するのとかわらない。たとえばミツバチの結婚飛行・巣わかれ・新しい女王たちの哺育の場合のように、各動物の行動は全体によって規定される。各動物個体の予見によるとはとても考えられない驚くべき《目的性》が示される。…最高度に発達した昆虫国家にいたる道は、高度に体制化された生物個体に達する系統発生的道程と似ていて、系統発生上でもはじめはゆるい連絡だったものが、だんだん緊密な体制に固まってゆくのが見られる」53-4頁

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(承前)「個体化とともに死ということが生命の世界に現われる。経験の示すところによれば、原始的《分割体》である下等動物とちがって、高等動物として現われてくる複雑な統一的システムは、分裂によっては増殖できない。こういうシステムはいつまでも生存しつづけられず、自然損耗して老齢や死に陥る。個体を死によって定義することは、当をえないことではないだろう。統一のシステム、そのうちでも特に中枢神経系の集中化傾向と、生殖器官の解体的傾向との間には、対極的な対立ができあがる(A. ミュラー)。完全な個体化すなわち集中化は、増殖を逆に不可能にすることになる。増殖とはまさに、年とった生物体の一部分から新生物体を作りあげることを前提としているのであるから。他方、指導的中枢系である脳と心臓とは自然の老化過程で最初に破綻し、それゆえとりもなおさず死の器官なのである。
 このように個体の概念は生物学的には、限界概念としてでなければ定義しようがない。実際この概念の規準は、自然科学や客観的観察とはちがうところにある」52-3頁

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「われわれは自然科学的には、個体性について次のようなことしかいえない。系統発生的・個体発生的に統一化が増していき、その間個々の部分はたえず分化し続け、自立性を失ってゆくということだ。極言すると、生物学的個体性などというものはなくて、系統発生的・個体発生的に前進してゆく個体化があるにすぎない。この個体化はもとをたどれば前進的集中化に始まっている。つまりある部分が、他の部分に対して指導的役割をえて、全体の動きもの部分によって定まるのである。個体性とは一つの限界であって、発生においても進化においてもこの限界に近づきはするが、そこに到達することはない」52-3頁→

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