新しいものを表示

(承前)「さらにまた分化すると、体の一定の部分が他に対し優越性を得る。だから分化の増大は<集中化>の増大とむすびついている。そこで高次に発展した階層性では、階層の序列と部分の服従の原則(A. ミュラー)がみられる。…もちろん生物体は、軍隊のように単純な梯子上の階層ではない。幾重にもなり相互に働きあうよく編成された全体である。…
 階層秩序と《主導部分》の原理もまた、形態学的な編成を超えた普遍的性格のものである。…
 集中化の原理はこのように生物学的個体性の問題と密接につながっている」49-50頁

スレッドを表示

「生物の段階を高く登れば登るだけ、関係しあっている全体のうちの各部分それぞれのふるまいかたは多様にはなってくるが、生物体全体の働きに比べると貧弱にもなってくる。…
 多様になること、つまり部分の<分化>が増すことは…漸進する統一化と結びついている。これはまた同時に、比喩的に《分業》といわれるところの特異化をも意味している。…
 分化が増していくことは、同時に《機械化》が増すことである。つまり、はじめ統一されていた行動が個々の別々の行動の集合体に分かれ、それとともに調節能力を失う。ある部分が、多少とも一つの機能ばかりを担当すれば必要の際に他の機能を代行する調節能力は退化する。その部分が失われると補いのつかぬ損傷になる。…特異化(専門化)によってはじめて行動をもっと高次にすることができる。専門家は一方ではかけがえのないものだが、他方またふだんの環境以外のところでは原始人よりもずっと始末におえないものだ[😅]。…個々の生物体や生物の部分についても、また外界に対して適応するときにも、分化と特殊化によってはじめて高次の発展がなしとげられる。生物体が機械化し、その部分が単一の機能にだけ結びつけられ、したがって攪乱に対する可塑性を失うという損失を代償に、はじめて高次の発展をあがなうことがてきる」48-9頁→

スレッドを表示

「さらにまた階層的秩序の重要な型として<階層的分岐>といわれるものがある。…階層的秩序の概念を使うと、事象Wはここでは原初の統一された胚であって、これに続く準位面に対応するのは、分岐していく第1・第2級・・・・の部分システムである。重要なのは分岐が、分裂の階層性内での細胞的編成とは、一致しないことだ。…別個の各部分の運命をきめる要因は、発生しつつある卵が分岐によって細胞成分へと細分されたことにあるのではない。むしろそうした要因というのは、一群の細胞の集まりから一定の成分ができてくるように決定する動的先行経歴(Prius)である。…
 生物学的階層性でもそうだが、心理学的および社会学的階層性でも、分岐という性格がとりわけ目だつ。…生物学の領域では、全体がまず始め[ママ]で、これが部分システムへと分岐する。…しかし系統発生でも、生物体の分化が進むことは、生命機能が分岐することを表わす」46-7頁

スレッドを表示

「生物は形態学的な<部分の階層性>だけでなく、生理学的な<過程の階層性>をもあわせ示している。もっと正確にいいかえるならば生物体は形態学ですべてをつくせるような単一の階層性を示してはいない。それは幾重にも入りまじり、重なりあった諸階層性のシステムである。…
 過程の階層性は形態学上の編成よりもずっと移りかわりやすい。ある過程が形態学的な一成分と関係していれば、過程の階層性と形態学上の編成が一致することもある。しかし一致せねばならぬわけではない」45頁

スレッドを表示

「<遺伝学的階層性>…関係R(g)が意味するところは《直接の子孫であること》だ。両性生殖では遺伝学的階層性は説くまでもなく複雑なシステムのほんの一部にすぎない。受精卵は両方の親に対してR(g)の関係にあるために、システムは網状構造の性格を持つ」44頁

スレッドを表示

「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁

スレッドを表示

「多細胞生物の<空間的階層性>…多細胞生物は、諸部分の段階構造からなっていて、各段階はいつでも、もっと高次の秩序をもつ体型へとまとめあげられてゆくのである。ここでW’は全生物体で表わされ、Mは生体の部分である。ある成分がもっと高い水準にある成分にたいしてもつところの体制関係がR(s)である」41頁

スレッドを表示

「体制の一般原理
 生物体にみられる段階構造は、生物学だけでなくひろく心理学や社会学の領域にもわたる一つのパターンの一斑なのである。それは<階層的秩序>と呼んでよい」40頁

スレッドを表示

「安定な化合物としてのタンパク質は安定化の産物であって、生細胞中では…なんらかの動的平衡関係にあるととるほかあるまい」37頁

スレッドを表示

「生物学的単位要素は安定な結晶として理解するべきではなく生物システム全体とおなじく、たえず物質交代をしている…
 この見方から普遍的な結果…まず、遺伝子や染色体が、静止的な巨大分子やその複合体ではなく、動的構造をもつもの、《物質交代する無周期性結晶》だということであって、それらが存続するのは静止的に続いているのではなく、定常的な姿で維持されているものと思われる」32-3頁

この場合の「結晶」て何だ? 😅

スレッドを表示

「<超微視的形態学>の領域(フライ=ウィスリンク)で物理=化学的範疇から生物学的なものへの移りかわりがおきる。…新しい構造レベルに達するつど、自由度は増していく」28-9頁

スレッドを表示

(承前)「〔生物学の現在の〕目標は、<正確な法則性>をまず提示することであるが、この法則性は生命現象の基本特性に対応して、かなりの程度までシステム法則の性質をもつものでなければならない。その意味で有機体論の見方は、生物学が形態や過程を記述する博物学の段階から法則科学にうつり変わるための前提なのだ。無生物の世界では、アリストテレス的世界体系から新物理学に移行する際に《コペルニクス的転回》が起きたのだったが、生物学でもこの転回をやりおおせるの私たち現代に課せられた宿題である」24頁

スレッドを表示

「生命の自律性などということは、機械論では相手にされず、生気論では形而上学的疑問符をつけられっぱなしであった。だが右[上]のようなわけで、有機体論の問題を自然科学的に取り扱うことができるし、現にかなり調べてきている。
 《全体性》という表現は過去長くにわたって誤用されてきたが、有機体論でいう全体性とは神秘めいた実態でもなく、私たちの無知の隠れみのでもない。全体性は自然科学の方法で扱えるし扱わねばならない、一個の生物学的実体なのだ。
 有機体論は機械論と生気論の折衷でもなく中道でもない。…体制と全体性は、有機システムに内在しており自然科学によって解明できる秩序原理であって、まったく新しい立場にある。…
 有機体論の立場は、まず<生物学の研究方法ならびに理論>という意味で、次に<認識論としての意義>の見地から吟味されるべきものである。…有機体論は生物学の基本的問題とそれらへの可能な説明を見てとらせ、またこれと取り組むことを可能にしてくれる。以前の機械論や生気論の立場では、一般にこれらの問題説明をそもそも見いだすことができず、見いだされたにしても不可思議とされて自然科学の方法では手のつけようがないとされた」22-4頁→

スレッドを表示

(承前)「要するに生物体の秩序や調節を説明するのには2つの可能性しかないと思われていた。生物の秩序性は機械的に固定された構造によるとするか、生気論的な要因によるとするかである。どちらの理解のしかたも不十分であって、機械論的な見方は調節と《機械》の成りたちの問題に答えられない。他方生気論は自然科学的な説明を断念したものだ。
 有機体論の見方が、右[上]の両者と相対峙する。一つ一つの要素や過程を確定することも、生物の秩序性を機械類似の構造に帰することも、また秩序化要因としてエンテレキーのごときものに訴えることも、生命現象を認識する上では不十分なのである。…ここに生物学の本質的でしかも独自の課題がある。生物学的秩序性は特殊なものであって無生物領域の法則性を越えていはするが、探究を進めるにつれて、これに次第に近づいていくことはできる。秩序性はあらゆる段階で研究されねばならない。物理=化学的な単位過程およびシステムの段階、細胞と多細胞生物体という生物学的段階、個体を越えた生命単一体の段階、そのどの段階にも新しい〔それ以下の段階にはない〕特質と法則性がある。生物学的秩序性は、広く見て、動的性格のものといえる」22頁

スレッドを表示

(承前)「これらのモットーによって機械論と生気論の論争は克服できるのであって、そもそもこの両説はともに分析=加算的・機械理論的な見方からでてきている。機械論は生命のまさに基本の問題たる秩序・組織性・全体論的および調節に対してなんの解決も与えはせず、分析的研究においては、上の問題は解決されぬままに残る。…生気論はまさにこの未解決の問題から生まれたのであるが、これとて加算的・機械的な理解を越えるものではない。それどころかこの説においても生物体は部分や仕組みの集まりなのだ。ただ生気論では、これが何か霊気めいた操師の手に委ねられ、完成されると思うだけにすぎない。たとえばドリーシュは、胚とは細胞が《加算的に並びあったもの》で、これがエンテレキーによって始めて[ママ]完成されると述べている。生気論者も機械論者と同じく、有機的なシステムという中立の立場から出発せず、有機的機械という偏見から出発する。調節の問題や機械の起源という点にきて、生気論者はこの有機的機械という観念ではまに合わないことに気づき、機械論から生物を救わんものと、別の要因を導きいれるのである。この要因は秩序性が乱されれば機械を修復するし、時には機械の作り手としても働く」21-2頁→

スレッドを表示

「生物体は外部条件が一定のままでしたがって外から刺激がなくとも、受動的なシステムではなく、基本的に<能動的>なシステムである。…崩壊や構築は生来本来のものであって、外の条件によって課せられるのではない。…現代の研究によれば、律動的自動作用が示す自律活性のほうが、反射的な反応性よりも基本的だとみなければならない。
 そこで有機体論の見方をまとめれば次の標語になる。<システムを分析=加算的に見るよりも全体的に>! <静的=機械的に見るよりも動的に>! 生体の<一次的な反応性>に注目するよりも<一次的に能動的なもの>であると考えること!」20-1頁→

スレッドを表示

(承前)「そこで結論は次のとおりだ。ます全システムに含まれている諸条件の交互作用で、つまり<動的>秩序によって、生物体の現象に方向が与えられる。生物の調節能力を裏づけているのはこの動的秩序である。つぎには機械化が進みだし、はじめは統一された行動だったものがばらばらにほぐれ、個々の過程が一定の構造のもとで行なわれる。構造的=機械的な秩序ではなく、動的秩序が第一であって…生物体は機械<である>のではないが、ある程度まで機械<となる>のだ。機械となって固定するのだ。もちろん機械になりきるわけではない。つまり全然機械になってしまえば、生物体は撹乱されても調節することができないから、外界の与える制約がしょっちゅう変わっても、これに辻褄をあわせていけないわけだ。生物体の諸過程は、構造にしっかり結びついた個々の過程が単に集まっただけのものてはなく、それはむしろ多少とも、動的なシステムの内部で規定される現象の性質を備えている。生物が、変化する要求に適応する能力をもち、攪乱に際して調節力をもっているのはそのためである」20頁

スレッドを表示

(承前)「第3に個体発生でも系統発生でも、先へ進むにつれ、<より>機械化されず調節力ある状態から、機械化され、<より>調節力の少ないものへと移りかわってゆくのがいたるところで見うけられる。…いろんな生命現象について…ただ一つ特定の行動にだけむかって固定化されてしまうことがいたるところに見いだされる。これは前進的機械化と呼んでよいであろう」19頁→

スレッドを表示

「次の3つの拠りどころから私たちは構造上の秩序を生命現象の基本だとは考えかねる。
 まず第1、生命現象の全分野にわたり、調整——攪乱から回復すること——の可能性がみられる。たとえばドリーシュは、胚発生の時に行われる調節は《機械》ということを基盤にしてはありえないと主張したが、まさにそのとおりなのである。なぜなら、固定された構造は一定の働きかけにだけ応ずることしかできないので、勝手な要求に対しては応じうるものではないからだ。
 第2に機械と生物との構造には、根本からの区別があって、前者はいつでも永続的な構築素材でできているが、後者はたえず更迭し、いつも崩れてはまた作られて、はじめて自分の体を保ってゆく。生物体の構造は秩序づけられた諸過程の現われそのものでさえあるし、また、これら諸過程にあってこそはじめて成り立つものなのである。だから、生物の諸過程がもつ根本的な秩序性は、既成の構造の中でなく、むしろ過程自身の中でしか探しだすことができないのだ」18-9頁→

スレッドを表示

「たとえば細胞や生物体の中では、互いに意味づけあいまた現状を維持するようなやりかたで無数の過程が流れているのであるが、私たちが細胞を観察して生命現象の秩序を説明する際には、たった一つの概念しかなかった。名づけて<機械理論的>といえるものである。ヴァイスマンの胚発生理論…や古典的な反射=中枢説…が、こうしたとらえかたの好例である」18頁

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。