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「より離れた領域における同等かそれ以上に優れた人物は、たとえ周辺的には非常に重要だったかもしれないにしても、私の発展において同じ意義を当然ながら持たなかった。これは、キャノンや、ダーウィンのような生物学的背景を持つ人物や、ホワイトヘッド、ピアジェ、ノーバート・ウィーナー、その他のいろいろな人々にも当てはまっただろう」p.874.

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「おそらく私は、最も重要な知的ロールモデルの、私にとっての意義の概念に関して少しの言葉で締め括れるだろう。すなわち明らかに、ヴェーバー、デュルケームそしてフロイトは、重要なことにその誰一人として私は個人的にはついぞ知らなかったが、ある種の個人的覚醒の獲得、あるいはおそらくエリクソンの用語を使えばある種の『アイデンティティ』獲得の時期までは、みな生き永らえたのだ。諸問題と、私の思考にとって中心的であった多くの経験的・概念的構造の形成における現実的影響の点で、3人がみな本質的であったのは極めて明らかだ」p.873.

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「サイコセラピーの合理的構成素は、経済的・政治的合理性とその道具的性質を共有している。だが、これを超える2つの問題が生ずる。最も明らかな問題は、そのような道具的合理性がその利益にかなうようにと生み出されたところの、目的ないし目標の正当性と正当化の源泉に関わる。功利主義者は、また今なお大部分の経済学者は、消費『欲求』を所与のものとして、すなわち自分たちの目的のための知的問題の座を構成しないものとして扱う。同様にフロイトや精神医学にあっては、メンタルヘルスは一般的健康の一側面だったのであり、その獲得や回復は定義からしてほとんど望ましいものだった。けれども両方[経済学と精神医学]の文脈において、また他のいろいろな文脈において、有名な本のタイトル(ロバート・リンドの『何のための知識か?』)をパラフレーズして、『何のための合理性か?』という問いを掲げることが望ましい」p.872.

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「第3の相がもし存在するとすればそれは、そけら2つの相のリンクである。古典的なアフォリズムはフロイトの、『イドありしところに自我をあらしめよ』である。オーギュスト・コントと彼のスローガンである『知は力なり』まで遡ることすらできるかもしれない。いかなる意味で、またいかなる限界の内で、非合理的なもの——明らかに物理的世界を含む——の合理的理解は、制御へのドアを開くのか? その答えは、最も一般的な道程の意味において、それはそのようなドアを開くということだ。けれどもここには、合理性複合体の最もひどく論争的であった領域の1つが残っているのであり、そのいろいろな側面は私にとって非常に中心的であったのだ」p.872.

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「第2の非常に不可欠な文脈は、非合理的、また時として不合理な諸力の、認知的用語に言う合理的理解への接近可能性に関わる。私が到来した知的運動は、この状況に深く巻き込まれていた。これは最も顕著にはフロイトを含むが、しかし私が扱った主な著者たちも、マーシャルを除いて含まれることは非常に明らかだ。おそらくはフロイトの最も英雄的な努力は、『無意識なものの合理的理解』のためのプログラムを開始したことであったが、その本質は彼の定義により、まさにその性質において非合理的なものだった。これはまさしく、『自己利益の合理的追求』の合理的理解から、あるいはまた、合理的に認知的な知識の追求の合理的理解から、遠く隔たっている」p.871.

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「明らかにしてきたように、何年にもわたって私はむしろ、経済-政治的合理性の他のオルタナティヴにより多く関心を持ってきた。すなわち、一方では有機的複合体に対して、また他方では文化的なものに対して高度に複雑な関係を持つことがわかるようなやり方で、社会システムをパーソナリティにリンクさせたオルタナティヴに、である。かくして前者[有機的複合体]の文脈では、性愛複合体の意義の問題が際立っていたのであり、後者[文化的なものの文脈]においては、フロイトの超自我概念とともに始まった、内面化された価値の役割の問題が最重要であった。
 この文脈での『合理性の問題』は2つの、ないしあり得るなら3つの相を有する。1つは、行為の決定における合理的・非合理的諸力の役割の問題である——例えば、フロイトにあっては、『快楽原理』に支配された『本能欲求』に関わる自我・『現実原理』・イドである。この領域における私の見解は、この問題の他の多くの研究者の見解よりもはるかに反合理的ではないことを、読者に明らかにすべきである」p.871.

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「私はナイーヴな合理主義者だったことはないということを明らかにしておきたい。事実上全ての人間行為が本質的に合理的であるという意味においても、非合理的ないしは不合理ですらある要素を非難すべきだという意味においても、である。私のポジションはむしろ、合理的な構成素の役割と性質を、そのようなものと指定すべきでない構成素との関係において分析を試みることが、理論的関心の主な焦点をなしてきたということだ」pp.870-1.

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「社会経済的思考と生物学的思考のある種の収斂への確信が、初期には役割を果たした。おそらくとりわけ私のフロイトへの関心によって、社会システム理論とパーソナリティ理論の間の収斂の問題と、また次第に、それが実際に存在しているという程度とが、目立ったものになった。もちろんそのような収斂はしばしば、額面上は両立不可能なポジションであるものから引き出されなくてはならなかった。パーソナリティと生命体の間の分析的区別は大部分の心理学的思考において不明瞭だったが——実際、今日なら多くの心理学者はその関連性を完全に否定するであろう——、しかし特に、脳に関する著作の初期段階でジェームズ・オールズと、またカール・プレブラムと交流したがゆえに、私にはそれは、分析的区別の枠組内での収斂パターンの1つのケースに思われたのである。同じ[収斂的]考察は、社会システムと文化システムの関係領域でも働き、それに対しては私は特にヴェーバーから、また文化人類学者との多くの交流からも教えられたのである。ある意味で、おそらく最も広範囲にわたるあらゆる収斂は、多くの交流や修正を経たサイバネティックな概念の傘の下で起きたように思われる」p.870.

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「この[主意主義的行為理論への]収斂は…とりわけ威圧的強制とは区別された規範的コントロールの構成素に対して、心理学におけるホメオスタティックな概念と、それよりはるかに広い範囲にわたるサイバネティックな概念の双方をリンクさせるやり方で関わった」p.870.

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「しかしながら精神分析理論は、いくつかの例外(例えば、青年期に関するエリクソン)を除いて、正規の教育のいろいろな段階を通じた社会化過程の進歩的段階を明白に無視してきた。それはしばしばセラピーと、性格構造が人生の最初の年——あるいはより普通には6歳——の終わりまでには完全に定まり、その後に来るものは病理学やその欠如に無難に移管できるという曖昧な言明に甘んじてきた」😅 p.859.

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「私に最も親しみのあった、この複雑な問題領域[資本主義-社会主義の二分法、ゲマインシャフト-ゲゼルシャフトの二分法の克服]へのアプローチとは、個人の社会化過程の分析を継続することであり、そこに含まれる動機づけダイナミクスと、社会的および文化的システムの双方の観点から見た過程の構造的設定の間の相互関係を特に参照することであった。厳密なパーソナリティ・レベルでの精神分析的心理学は、この問題領域に取り組むための堅固な理論的基礎を与えてくれた。しかしながら理解できる理由により、それは、過程のより早期の段階——とりわけ古典的な形では、エディプス段階——に注意を集中させる傾向があった。ここですらそれは、家族・親族システムの社会学的分析に照らしてかなりの矯正・修正をする必要があったのである」pp.858-9.

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「非常に長いこと——例えば、ハーバート・スペンサーの著作において——分化は、新たに統合された構造やメカニズムによって機能的な理由で遂行されると理解されてきた。部分的にはこの理由から、新たに分化したシステムもまた新たな適応問題に巻き込まれるのであり、それは、ダーウィン的伝統の中に結晶化されたものとしての適応の一般的な生物学的概念と非常に合致しているが、しかしまた、受動的な適応とは区別された能動的な適応の新たな強調とも合致している」p.851.

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「サイバネティックなパースペクティヴはまた、行為システムにおける安定性と変化のイライラさせられる問題を扱うための新しい可能性を開くのに役立った。この繋がりにおいては、新しいパースペクティヴを、パーソナリティの社会化や似たテーマへの私の以前からの関心と接合することが可能だった。システム-パターンが維持される過程——社会にとっては新しい成員の社会化を含む——と、その主要な構造が変えられる過程との間の根本的な理論的区別に固執することは正当化されるように思われた。それは、個体生命体の状態が維持ないし変えられる生理学的過程と、種の遺伝的構成の変化を含む進化的過程の間の、基礎的な生物学的区別と大まかにはアナロガスであるからだ」p.851.

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「生物学理論のサイバネティックな側面の発展、とりわけ『新しい遺伝学』が、行為の理論にとって極めて示唆的であることがわかった。特に重要だったのは、『文化的に象徴的な意味のシステム』が、生物学的継承において遺伝子が果たすのとアナロガスな(アナロジーの正しい生物学的な意味で)役割を果たすというエマーソンのアイデアだった」p.850.

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「システムの概念は、他でと同様に行為の領域において、非常に早い段階から私の思考にとって中心的だった。それには、このタイプの理論の本質的な議論に著しく入り込んできた経験的-理論的諸問題の広範な複合体が結びついている。それらは、均衡のような概念や、その安定性・可能性・変化過程の諸条件との関係、機能概念それ自体の地位、社会システムの特質としての『合意 対 紛争』の問題、そして、システムにおいて『維持過程』と呼ばれ得るものと構造的変化の過程の間の関係に関わっており、進化の概念やその反対物にまでずっと伸びているのである。
 おそらく…均衡問題への私の最初の導入は、シュムペーターによる経済への適用によって強められた、ヘンダーソン-パレートのバージョンの形態を取っていた。この形態は、システム概念を機械論(mechanics)の意味で用い、物理-化学システムをモデルとしていた。それは安定性の諸条件を強調したが、ヘンダーソンは、パレートの均衡概念は必ずしも静態的ではなかったと注意深く指摘していた。しかしながら私は非常に早くに、均衡のより生理学的な概念、とりわけホメオスタシスの概念をめぐってキャノンが定式化したような概念に影響されるようになった」p.849.

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「4機能パラダイムの論理は次第に、『行動有機体』が——トータルな具体的生命体ではなく——いかにして適応(fit in)され得るか、またされるべきかを明らかにした。この拡張は、生物学的関心の蘇りと拡大により促進されたが、それは特に、アルフレッド・エマーソンとの交流を通じて、また、社会心理学から脳領野の研究に転じたジェームズ・オールズとの深い付き合いによってであった。行為の4つのサブシステムの機能的配置は、明確で安定している。すなわちそれらは、適応の位置においては行動有機体であり、目標達成においてはパーソナリティであり、統合の位置においては社会システムであり、パターン維持においては文化システムである」p.848.

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「単なる信仰ではないもの、感情の問題ではないものとして、自然の中には実際に全体性が存在する。これを証明すること、そして、自然の、および形而上学的な<全体性>に関するすべての考察に健全な基礎を与えること、これが生気論の利点である」313頁

気分は形而上(古)

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「われわれの生気論は、個体的であっても超個体的であっても同じように、その特徴が控えめなものだとは言い難い。それは直接的に『事実』に立脚するが、これに密接に関連する状態を維持する。それは、スピノザ教義を破壊し、自然を何か、空間的な記号化の下に完全に把握できるものではないと見なす。空間の中にただ存在する何ものか以上のものが、自然にはある」308頁

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「私自身すべての論理学的な前提条件にもかかわらず、二元論の教義を受け容れざるをえないと感じている。この二元論は、以下のように要約できる。偶然の世界として物質的世界が存在する。しかしまた、ある種の物質的世界、たとえば生物学的な個体性として。そして別の様式である系統発生と歴史においても、それ自身を表出させる形式あるいは秩序の世界もまた存在する。それは、われわれが無機的と呼ぶものの中では形式に類似した組み合わせとして存在しうる」305-6頁

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「自然の調和(harmony of Nature)という古代の観念が、現代的な形をとって再び前面に出てきたことは、私には非常に重要なことに思える。…ここでは、アメリカの生物学的化学者、ヘンダーソン教授の注目すべき著作、『環境への[の]適応(The FItness of Environment)』で示された、重要な成果について述べておきたい。ヘンダーソン教授は、水と炭酸がもつ多くの例外的な特性に注目するよう呼びかける。…水と炭酸の間には相互適応に似た状態があり、生命ともそうなのである。そしてこれは、有機的および非有機的な自然を含む宇宙一般の、ある種の全体性もしくは目的論を証明しているようにみえる」298-9頁

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