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「<偶発事件の存在>
 秩序一元論の理想をわれわれが獲得しえない主たる理由は、<偶発事件が実際存在することを否定することが不可能である>ゆえである。
…展開[evolution]の流れ以外に、系統発生にはまた、真の変異や適応に関連して何らか偶発事件が存在することに、充分な理由があることが推測できる。超個体的な全体性に関する偶発事件は、ラマルク主義とダーウィン主義の主体問題(subject-matter)[主題]を形づくる」296-7頁

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「われわれの見る世界は、徹底して二元論的なものである。われわれは、単一および統合化因果性、無機と有機の自然、偶発事件と秩序、を議論してきた。そうであるなら、二元論を何らかの一元論で置き換える努力をすべきではないのか? もちろん、偶発事件を扱う現代的な一元論によってではなく、本当の秩序一元論によって」292頁

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「われわれは、進化論を無条件に受け入れる。とくに動物と植物の地理学的な分布と、古生物学から引き出される、強烈な議論はこの説を支持している。しかし、いわゆる系統発生の<法則>(law)についてはどうだろうか? ラマルクとダーウィンの名に関連した有名な理論は、真の系統発生の法則を説明していないことは、今日、広く認識されていると見てよい。双方の理論とも、ある領域では真であるにしても、それらは、主たる問題、系統発生における見かけ上の<進行する複雑さ>(progressive complication)の問題には届いていない。双方の理論は、ある種の生物におけるある種の適応について、たとえば、獲得形質の遺伝といった、付加的な仮説の助けをかりて辛うじて説明が可能になるだけである。不幸なことに、系統発生の<中心的な>…問題に関して、われわれは<絶対的に無知>…なのである。これに対してわれわれは、形式的で仮説的な解決を提示できるだけである。それは、ちょうど個体的エンテレキーが個体発生において自身を実現させるように、系統発生の過程という空間において自身を実現させる、ある種の超個体的なエンテレキーが存在する、と仮定することが可能なだけである」289頁

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「全体性の概念の論理学的な正当化論、とくに統合化因果性の理論は…生気論を正当化するだけではなく、同時にそれは、新しくまた非常に重要な、たくさんの問題を提起する。
 われわれは、生物学的な<個体性>についてのみ語り、そこにおいては、個体性における生成の型が統合化因果性であることを見てきた。しかし生物学的な個体性を別にすると、生物学的な個体性が成す集団について考察されるべきものが、なお存在する。生きる物の全体性、つまり進化論(theory of descent)として表現される生命の過程、がそれである」288頁

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「私は、カントによって定式化された『カテゴリー』概念が、生気論の学説に適合することを示してみたい」285頁

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「出発点において、<全体性>もしくは<全体>の概念は、生気論の理論の中では非常に重要であり、<1つの概念>として完全に正当化される」273頁

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「生気論の論理学は、<全体>(wholeness)の論理学の一分枝である」271頁

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「この[調和等能]系が、たとえばn個の細胞から成り立っており、すべてが等能であるとする。このことは、n個の細胞のそれぞれに、<同じ>だけの多数の生成についての可能性が、物理=化学的に、ただしエンテレキーに支配されて、準備されている[ここの日本語おかしい]。この系の発生は、いまやエンテレキーが<保留している力を弛緩させ>…それによって事態が進行するのを許すのである。…それぞれの細胞の中では、おそろしく多くの可能性の中から、それぞれ1つのことが起こりうるのである。このようにおそろしく多くの出来事がエンテレキーによって留保されている系が、エンテレキーの調節的な弛緩作用によって、可能性の均等な分布から実際の効果として不均等な分布へと変換することが、起こるのである。これがエンテレキー領域部分の、全能可能性ではない、すべてである。
 われわれが仮定したエンテレキーの弛緩作用は、絶対に非=エネルギー的である…エンテレキーの弛緩作用は、保留の作用と同様、それ自体(sui generis)の作用である。
 このことは、力学的および非=力学的な世界の間の因果関係を、有機的生命は物質によって制限されているという事実を犠牲にすることなく理解可能にする、ただ1つの可能な道のように、私には見える」268-9頁

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「<エンテレキーの調節作用>
…生命において機能する非=力学的な作用因が、その留保がなければ起こったであろう、ある種の出来事を留保している…とする仮説…ここでわれわれは、非常に特殊な非=力学的(non-mechanical)な出来事を把握しており、そしてそれは、調節能力の限界を理解可能にするものである。エンテレキーは、物質的な条件に縛られたものであり、それは存在ではなく、効果の中にある。いわゆる生命の物質的な<連続性>(continuity)は、いまや単に以下のような意味になる。『ポテンシャル』の違いという形で、出来事について非常に多くの可能性を包含した、ある種の物質の糸が、技術用語を使えば、永久にエンテレキーの制御の下にある、ある物質の糸が、存在するのである。
 この、エンテレキーの部分における制御行動がどこから来るのか、われわれはまったく知らない。だから、われわれは、<生命の起源について何か言明することは絶対に不可能である>」😅 267-8頁

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「エンテレキーの非エネルギー的性質という認識は、非常に重要な帰結をもたらす。もしエンテレキー自身が一種のエネルギーではなく、非エネルキー的なものであるとすると、以下のようなことになる。エネルギーの保存法則…は、ア・プリオリな、理性の要請による最後の切り札であり、ある条件の下で、<生気論がこれを必ず破るようなことは不必要である>…。いわば、エネルギーの流れは生命を通過するのであり、エネルギーの消失も出現もなく、何ものの出入りもない。エンテレキーはエネルギーを創出しない。少なくともわれわれの知るかぎりでは」265頁

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「<エンテレキーは物質に依存しない>
…エンテレキーは、定義された意味における空間中の物質としての『特性(property)』、属性、出来事、あるいは同様のものではないことを、われわれは把握する。…『量』とか『計測』という概念を、多様性の<調節>(arrangement)に関係する何ものかに対して適用することなどはナンセンスである。
 かくして、エンテレキーの存在は、その積極的な効果について語りうるものがないため[😅]、空間中の物質には依存しないことになる。空間中の物質に依存しないという同じ理由によって、エンテレキーは、エネルギーの一種ではないと言うことが可能になる。なぜなら、エンテレキーは<空間中での因果性の測定>(measurement of causality in space)以外のものであるからである」263-5頁

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「そもそも、エンテレキーには『心理的』な性質があるという発言は、まったく無意味であり、あるとすれば、かろうじて形而上学的な意味がありうるだけである。…
 繰り返すが、形而上学においてのみ、エンテレキーは『心理的』な型をとりうる」262-3頁

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「われわれは、有機的な自然の中に、物理=化学の型には属さない、それ自身の自律性をもつ、大きな一群の現象が存在することを証明しえたと考えている。ただしそれは、単なる<否定的な>言明以上のものではないのである。そこでわれわれは、アリストテレスの用語である<エンテレキー>(entelechy)を、われわれか研究してきた、生命の過程において機能する自律的な作用因を指す名前として導入する。これはそれ以上のことはいっさい意味しない[😅]。エンテレキーは、非物理的・化学的な何ものか、である。そしてそれに帰属すると確実に言いうる唯一の積極的特徴は、それが現実の基礎的な作用因であり、自然因子であるということだけである。…ここでは、エンテレキーの<暫定的な否定的性格>(provisional negativeness)を認識することがとくに大切である。なぜなら、生気論者がしばしば犯す誤り、つまり深く考えることなしに生気論的な作用因を何か『心理的(心的 psychical)』なものと見なしてしまう誤りから、われわれ自身を回避する道だからである。<機械論的>なものに反対することは、単に<非=機械論的>であることであり、即、それが『心理的』であることを意味しない」262頁

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「人間の行動に関係して、われわれが、生命の機械説を否定する際に用いる論理は、また、いわゆる<心理=物理並行論>(psysho[ママ]-physical parallelism)の理論への反論の一部ともなるものである。並行論とは、心理現象は完全な力学的過程の因果連鎖の『別の一面(the other side)』にすぎない、とするものである。…
…生気論者は、一部の心理学者が主張する人間行動の並行説という教義は、少なくともそれが、人間行動の自然的局面は破壊を受けない一連の力学的な流れである、とする断定を含むかぎり、受け入れることはできないのである」259-61頁

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「どんなものであれ刺激の単一の<要素>を単一な反応<要素>と結びつけることは、不可能であり、むしろ、1つの<全体>は別の<全体性>と連関している…
…『行動』は生命の<機械説>を基盤にして説明可能なのか、脳の中や神経系の物質過程によって、実際に起こっていることすべてを説明できるのか…
 もし行動している人間が写真機や同型の機械のようにふるまうのであれば、われわれは機械説を受け容れられる。だが、人間はこの機械のようにはふるまわない。それ以上の何かであり、人間を写真機と区別する特徴のすべては、人間と機械すべてを区別するものである。…行動している人間は…舞台俳優ではない。<彼は、自身の個人的歴史の積み重ねを統治できる存在である>。彼の歴史は、彼に将来の行動のための<手段>を提供するが、それ以上の力はもたない。彼が行動するとき、これらの手段は、<全体性の中での応答>の原理に沿って利用されることになる。…
…人間の行動の特徴は、それを自然の過程と見なすと、機械説を受容することを禁止すると言ってよい理由を得ることになる」258-9頁

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「本能の主たる特徴は、それが経験によるものではなく、むしろ『初源目的論的(primary-teleological)』、つまりちょうど再生現象のように、<それが初めて生じるとき>の多様性にある」253頁

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「ここでわれわれが、重大な根拠に基づいて、卵は発生学的な機械を保持しているとは考えられないと言明することは、すべてのメンデル主義と遺伝に関する細胞学的な研究は、その偉大さと無視できない重要性とは無関係に、この問題領域の半分しかカバーしない、と主張していることになる。遺伝が現実化することが依存する、ある世代から次の世代へ伝達される物質的な単位が存在し、これらの物質的条件が特定の核の中に位置していることをわれわれは知ることになった。しかし、これらの物質的条件は<主要な事象ではない>。何か<調節>(arrange)する作用因が必要なのであり、遺伝におけるこの調節作用因は、機械に似た、物理=化学的な特徴のものでは<ありえない>」252頁

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「機械説(machine theory)は、形態形成の現象に対してア・プリオリに適用が唯一可能な、機械論(力学説 mechanistic theory)であった。だから、機械説を放棄することは、この現象に対して機械論の試みを諦めるのと同じである。言い替えれば、調和等能系の分化について分析し研究することは、われわれに対して、少なくとも限定された領域において、生命の<自律性>(autonomy of life)の教義、もしくは生気論の教義をうち立てる資格を与えることになる。形態形成においては、物理=化学的な型ではない、ある作用因が機能しているのである」248頁

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「正常な系に存在すると仮定された発生学的な『機械』は、その系の<一部分>にも、他の部分にも、また互いに重なりあう異なった大きさの部分に関しても同様に、完全性が存在することを示すべき義務がある…というのも、この系のあらゆる部分が、大きさと、もとの系との割合の点で、完全なものを生み出しうることを、われわれは知っているからである。系を成すあらゆる細胞は、形態形成におけるすべての個々の役割を担うことができる。この役割は、単に『その位置の関数(a function of its position)』に従うのである。
 この事実を前にすれば、発生過程の機械説は矛盾にいきつく。これらの事実は、機械の概念に反する。機械は、諸部分を特殊な形に調整したものであり、そこから、あなたが好きな部分を取り除いてしまえば、元のものではなくなってしまう」247頁

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「調和等能系とその分化について語る時、生物学における生気論的概念を支持する最も重要な議論がここに依拠することになる。…調和系は、発生学の領域ならどこでも見られるというわけではない。…
 問題はこうである。<何が、等能系の各々の部分について、不均等な運命に導くのか?> 何が、等しい可能性から、同等ではない現実へと変換させるのか? 別の言葉で言えば、形態形成におけるさまざまな特性の<位置づけ(localization)>の問題である。この位置づけの機能はどこから来るのか?
 それは、<外部から>来るのではない。その形態形成において、分化の原因となる局所的な外部刺激(exterior stimuli)があったわけではないからである。…
 この場合、位置づけ機能は、その系内部における<純粋な化学的過程>を基盤にすることが<できない>。…化学的な分解や純化からは、幾何学的な調整による平衡が起こるだけである。しかし有機体は、幾何学的な調整や、この種の調整の組み合わせではない。また、有機体は多くの器官があり、同じ化学的組成をもっているのに、たとえば脊椎動物の骨をみても、非常に特殊な形をしている。結局、個体発生の純化学的理論は、等能性と矛盾することになり、それを説明できない」244-6頁

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