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「1890年前後になると、これまでよりも明確に生気論を規定する立場が現れたことで、生気論にふたたび関心が払われるようになった」145頁

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「ベアは一見したところ、真の生気論者で、単なる静的目的論者ではない。彼は両者の基本的な違いに気づいてはいないが、こうも述べている。『生命の過程全体は、物理・化学的現象の結果ではなく、これを制御するものによる』。
…ベアの貢献を、もう一点言及しておく。それは、ダーウィン主義者の言う『生物発生原理(biogenetic principle)』を、発生の歴史が『一般的なものからより特殊な関係に移行するもので、1つの特殊な関係が他に移行するのではない』ことを指摘して、訂正したことである。
…攻撃や誤解をたくさん含んではいるが、実はベアには生気論的な考え方が維持されている」141-2頁

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「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。
 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。
 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。
 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁

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「[デュボアやヘルムホルツは]生気論はエネルギー保存則と明確に矛盾する、と述べている。
…[ヘルムホルツ]『生命体が、それに見合ったエネルギーの消費なしに何らか量の仕事を行ないうる事実を、いささかも発見することはできない』」134頁

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エミール・デュボア・レイモン「生気論的意味での生命力は存在しない。なぜならそれによるとされる作用も、物質粒子がもつ中心的な諸力から引き出されるものとして分析されうるからである。この種の力は存在しない。これら諸力は独立に存在するのではなく、それを任意に分配したり、物質から取り除くことはできないのである」133頁

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「ベルナールは、『生命の計画』を認めるが、『生命原理による介入』は認めない。後者の『生命力』は最大限、『規制する力』としては認めるが、『執行する力』としては認めない。これは静的目的論のように聞こえる。
 だがその後、こう言っている。『生命力とは、みずからが産出するのではない現象をも支配する。物理的要因は、みずからが支配するのでない現象をも産出する』。これは生気論的な主張に受けとれる」123-4頁

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クロード・ベルナール「われわれは生気論者とは一線を画そう。なぜなら生命の力は、それにどんな名称を与えるにせよ、みずからは何もなすことができないからである。それが作用するには、自然の一般的な諸力の助けを借りてこなければならず、それら諸力を伴わずにみずからを発現させることはできないのである。——われわれはまた、唯物論者とも一線を画そう。生命の発現は、物理化学的諸条件の直接的な影響下にあるとはいえ、それらの条件が整ったからといって、生物に特別にあてがわれる秩序や継起へと、そうした現象をまとめ、調和させることはできないからだ」122-3頁

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「彼[ショーペンハウアー]は、生物学を生気論的な意味で、還元のできない特別な法則をもつ独立の科学と見なしたが、同時に彼にとって生命は、一連の事象の最終項であり、他の自然との対比は何も行なわれてはいない」111頁

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リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」
「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁

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ヨハネス・ミュラー「魂と生命との関係は、一般的な自然におけるすべての物理的な力と、その中で展開する物質との関係に対比できる。たとえば、光や、そこに出現する身体。双方とも謎は同じである」106-7頁

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「ショペンハウエルは、バルダハを、好意的にしかも頻繁に引用した。もちろん、彼が評価したのは、形而上学的な原子、『自然の意志(Will in Nature)であった。われわれは、ショペンハウエルは、自身が信じていたほどには、自然哲学としては大して違わない位置にあったことを、心にとどめておくべきである」100頁

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「K. F. バルダハ…
 生命原理(life-principle)は、『機械仕掛けの神(deus ex machina)』ではなく、『生命仕様の神(deus ex vita)』を意味する。いかなる機械論的、化学的理論をもってしても、有機的な形成を説明するのは不充分である。しかし、生命原理は、物質を離れては構想することはできない。それは『物質的手段を介して』、分泌や同化などの有機体共通の活動を介して作用する。『その活性が生命の本質だとしても、物質は単なる偶然にすぎない』」98頁

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「彼[ティーデマン]の論は、細い部分ではつぎのような結論に達した。活性化されていない身体の存在は、化学的な構成要素において生じる休止の状態に依存し、有機体の存在と維持は構成物の持続的な変化によって条件づけられている、というものである。これは『動的平衡(dynamic equilibrium)』という現代的概念を連想させる」😅 97-8頁

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「彼[M. F. オウテンリース]によると、生命には、物質とは本質的に異なる何ものかが存在する。その『生命力』は、身体からは独立したものである」95-6頁

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「彼[トレビラヌス]の場合、『合目的性』それ自体が、人工産物と比べて、生命を特徴づけるものである。本能的なるもの、無意識なるものが、彼の生気論的な理論全体の基礎になっている事実は、重要である。…『生きる存在と、魂を吹き込まれた存在(Beseeltsein)は、同じものである』」94頁

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「すべての物質は組織化されて、常に変化している。しかし、その組織化と変化において、変化の原因となる外部の影響が変化しないかぎり、永続する何かがある、という説である。生体の物質もその例外ではない。たとえば不可侵入性がそれである。トレビラヌスに言わせると、生体組織を構成している生体物質が例外であるのは、単に表面的なものであるにすぎない。宇宙の渦巻きから生じる自然を救うためには、宇宙の波動を打破するダムのようなものが在るはずである。これを媒介する力は、物質の可能性にとって必要な第一義の力ではない。『それゆえわれわれは、第一義的な力からこれを区別して、生命力(vis vitalis)と呼ぶ』」91頁

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「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁

どっちなんすかね…😅
twitter.com/9w9w9w92/status/13

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「トレビラヌスをもって、『スコラ的生気論』の創始と呼んでもよい。彼の主張の大部分は、先行者と大して変わりはないのだが、生理学的理論一般に生気論的システムを導入する学派がここから始まる、と言うことができる。それはこの学派の最後をかざる、ヨハネス・ミュラーまで続く」89頁

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「[J. C.]ライルは、生きる物質という観念に立脚した生気論的理論の、最初の主張者であり、そう明確に考えた人間であったが、理想(idea)から物質へどう移行するのかという問題の重要性に比べると、その理論はあまりに単純すぎた。彼は単に、理想をもつ物質の存在を認めただけであった」89頁

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「[ローレンツ]オーケンの奇妙な理論は本質的に、有機体の形態は他に還元できないとする、生気論の基本的真理に立脚している事実が読み取れる」86頁

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