社会学と誤用進化論😅を中心に読書記録をしてをります(今は平井・落合・森本編『結婚とケア』2022年)背景写真はボルネオのジャングルで見た野生のメガネザルhttps://researchmap.jp/MasatoOnoue/
若狭「[埴輪は]王個人のものではなくて皆の記念物。そのような公共性があるからこそ、古墳は全国で300年以上にわたって造られたのだろうと思います」322頁
若狭「中国の俑は来世への付き添い人のようなもので、お墓に入れるんですね。日本の埴輪はそうではなく、外に立てて見せびらかすんです。だから埴輪は被葬者のためではなくて、共同体のためにあるんです」319頁
若狭「女性リーダーは古墳時代前期には多いけれども、軍事力や外交力が必要となった後期になると減っていく…5世紀前半まで、人の像を残すことは禁忌だったと思います。埴輪群像が出てくる5世紀前半より前は、人物埴輪は無いんです。…たぶん、被葬者——死者——を恐れているんですね」317頁
吉村武彦・菱田淳子・若狭 徹・吉川敏子・鉄野昌弘・吉川真司「座談会 《古代人の一生》と性差」311-38頁
「女性の側が受動的で、物のように扱われている面は否めない。男女をともに譬喩する場合には、女性を植物に、男性を動物に宛てるのが普遍である」309頁
「9世紀の宮廷は、専ら漢詩文が首座を占めていた」305頁
「族内婚は藤原氏にも見られ、奈良時代に普遍的であった」297頁
「乱婚や性的解放は、[高橋]虫麻呂の文学的創作であり、幻想であるとする見方もある」268頁
「詩が『言志』、男子の政治参加の意志を盛る器であった中国では、詩集にこれほど多くの男女が関わる詩が含まれることは稀である。男女を詠うのは、和歌の特徴であると言ってよい。その特徴は、平安時代の勅撰集において、四季の部と恋の部とが二本柱になるのに引き継がれる」265頁
鉄野昌弘「『万葉集』にみる女と男——古代の歌における虚構と現実の相関」263-310頁
「[宮人は]しかるべき手続きを踏めば、夫を持つことも禁じられていなかった。これらの寛容さは日本古代の後宮の大きな特徴である」246頁
「日本には、中国や朝鮮半島のような宦官が置かれなかった」245頁
「宮人の職事が官人とともに預かり知ったというのは、物品の調達などの連携を内実とし、官人・宮人が共同で同内容の労働に従事する意味ではない」237頁
「[男女が]異なる役割を持って連携することと、場を同じくして同内容の業務に従事する労働とは明確に弁別されなければならない」233頁
「いざ、天皇のお手付きとなった采女が懐妊したときに、それが真に天皇の胤であるかどうかがわからないということでは大問題であるから、天皇は後宮で働く女性の配偶関係を把握しておかなければならなかったはずである。 …男女が気の向く間だけ婚姻関係を結ぶ対偶婚など、少なくとも宮人には縁のない話であったに相違ない」219頁
「采女が配偶者を持つことはあったが、それが故に采女が自由な性交渉を持つことができたとすることは早計である。おそらく、彼女らは天皇の許可を得て、あるいは下命によって天皇以外の男性と結婚したのであろう」217頁
「采女の性行為が大王の管理下にあることが前提にある。…采女の性が開放[ママ]されていたと論じる研究には、記紀に散見する姦通した采女や相手男性の処罰についての伝承のひとつひとつに特殊な事情をあてはめ、伝承そのものが采女の自由な性交渉を否定するものではないと解釈する説がある[伊集院、2016]。しかし、そのような伝承は、すべて采女の自由恋愛を禁忌とする前提があって成立するものである。ことの本質を捨象して枝葉で論じてはなるまい」216頁
「8世紀を通じて政務のあり方が変わり、宮中(内裏)での男性の伺候が進むと、男女は官人・宮人ではなく、男官・女官と対の呼称で呼ばれるようになるが、内裏内においても男女の伺候する空間は異なっており、奉仕の場にちなんで男房・女房と呼ばれるようになる…日本の古代に女性の為政者(女帝)はいても、女性官僚はいなかった」212-3頁
吉川敏子「男の官仕え 女の宮仕え」211-62頁
「『魏志倭人伝』の『倭人はみな、入墨をしていた』との記事を全面的に信用するわけにはいかない。しかし、弥生時代には部族識別のために珍しくなかった入墨が、古墳時代には衰退し、特定の部族や職業に限られていったことは…伝承から汲みとっても誤りではないだろう」186頁
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