「<文明以前の家族>
中国やインドでは、早い時期に文明が発展するとともに国家が成立した。国家が成立する以前の家族は、多様なものであったと考えられるが、国家の統制によって画一化したとも考えられる。…周辺地域は、インドや中国に遅れ、各地域の特徴を残しながら同方向の変化を遂げていったと考えられる。
…中国の古代社会については、家父長制であったという考えが優勢であった。しかし、1990年以降出土史料の研究が盛んに行われたことで、家父長制への疑問が出されている。中国の家族を家父長制として捉えることには儒教が影響している。…儒教の影響によって、中国の家族が家父長制になるのは漢代以降であり、それ以前は非家父長制であった。小寺敦は『春秋左氏』の分析から戦国時代に家族史的な画期があるとし、それ以前は父系的ではなかったとする」2-3頁
「女性を通した儀礼秩序の穢れや血の質に関する不安をもっとも明確に示しているのは、混血に対する恐怖である。カーストの数が増加することに関する理論的説明では、もっとも不浄かつ低位のカーストの地位は混血、つまりカーストの混合に起因するという。もっとも不浄なカーストは、高位カーストの女性と低位カーストの男性の忌むべき結合から産まれた人々だとされる。カースト制度のイデオローグたちは、とりわけプラティローマ(下降婚)、すなわち『逆毛婚』とよばれた結婚に対して恐怖をもち、もっとも厳しい非難と懲罰の対象とした。懲罰は近年に至るまで継続し、母子を溺死させる…あるいは関係の遮断や儀礼的な死といった制裁が行われてきたのである。
カーストの構造は、女性に対する厳しい行動制限、あるいは隔離を通して守られる。女性はカースト制度にとって玄関(文字通り、人口の地点という意味で)とみなされる。低位カーストの性的能力は高位カーストの浄性の脅威となるので、高位カースト女性への性的接近は制度的に防がなければならない。したがって、女性は注意深く保護されるべきである…バラモン文献では、混血を防ぐ構造が崩壊すれば、バラモンによって構築された精巧な社会秩序のすべてが破綻してしまうと考える」26頁
「ビームベートカ(紀元前約5000年)における最近の洞窟壁画研究では、女性は果物や野生の農産物の採集に従事し、小動物の狩猟において籠や網を使用していたとみられている。狩猟採集段階にある社会において、女性は母としての役割と採集者としての活動とを組み合わせていた。壁画には2人の子どもを籠に入れて肩にさげ頭には動物を載せた女性や、籠や網をもった女性(しばしば妊娠した姿で描かれている)、角をもって鹿を引きずっている女性、漁を行っている女性などの絵もみられる…集団狩猟の壁画にも女性が含まれている。精巧な頭飾りからは、狩猟の成功を確実にするために、女性たちが象徴的にも実際的にも狩猟に参加していたことが示されている。
したがって、これらの中央インドの洞窟壁画は、男性は狩猟、女性は採集という、一般に狩猟採集時代の前提とされてきた性別役割分業は厳格には存在していなかったことを示唆している。中石器時代において、採集は熱帯気候である中央アジアの主要な食糧源であり重要な仕事であった。女性はそれを引き受ける一方で、狩猟にも参加していたとみられている。つまり、経済上の女性の役割は、男性のそれよりも大きくはなかったとしても、少なくとも同等だった」27頁
「アーリア人が一定の地域における支配の確立に成功すると、原住部族の男性の多くは逃亡するか殺され、征服者は支配下においた集団の女性たちを奴隷化した。したがって、古代インド史において最初に奴隷化された大きな集団は女性であり、女奴隷であるダーシーは男奴隷のダーサーよりも頻繁に言及されている…リグ・ヴェーダにみられるこうした叙述は、すべての征服した部族は、少なくとも征服の最初段階では敗北した部族の男性を殺し女性を奴隷化したとするラーナーの議論…と一致する。…リグ・ヴェーダの叙述は、女性の間の決定的な階層化、すなわち征服した側の女性と征服される側の女性の間の階層化を反映したものであり、きわめて重要である。例えば、リグ・ヴェーダでは二足動物と四肢動物、つまり奴隷と牛を支配するアーリア人女性が描かれている…女奴隷の労働とセクシュアリティは使役されるべきものとして存在したが、それらは総体として支配部族の男性の支配下にあった。贈り物の対象としての女奴隷の叙述は、受け取り手はつねに男性であることを示している。女性の捕獲役として、武人はしばしば女奴隷を司祭に贈っていた。原始的蓄積[?]において女奴隷の所有が重要な要素であったことは明らかである」28-9頁
「統制不能な女性のセクシュアリティは脅威をもたらすと認識され、古代インドの諸々の物語群や規範的文献には、女性の『貪欲な』欲情と邪悪さへの言及が溢れることになった。
マハーバーラタにおいてビシュマからユディシュティラに語られたアシュターヴァクラの話は、女性の『真の』本質と考えられていた破壊的で悪魔的な欲望を生々しく描いている。結婚の準備のためアシュターヴァクラは女性の苦行者のもとへ送られたが、その苦行者は高齢にもかかわらず繰り返しアシュターヴァクラを誘惑する。苦行者は、アシュターヴィクラに、女性にとって性交にまさる喜びや破壊的衝動はないこと、高齢の女性でさえ性的な情熱で我を忘れること、そして、女性の性欲は3つの世界すべてにおいて、決して克服できるものではないことを告げた…アサタマンタ・ジャータカにおいても、高齢の女性でさえ性的な危険要因になりうると、この教えが繰り返される。
統制不能な女性のセクシュアリティに対するこの恐怖が、女性を支配するための効果的な制度の形成と、女性をつねに監護する必要性への強迫観念の背後にあった。女性への支配が緩む、あるいはその効果が薄れると、その途端に女性の無秩序な性欲が密通を引き起こすのである」33頁
「一般的に女性の『本質』がそのセクシュアリティと同一視される状況があった。女性の本質は罪深いものとみなされるのが一般的だった。ある文献では、すべての始まりのとき以来、すなわち創造主が最初に5大元素と3つの世界を創り、次に男女を創造したそのとき以来、女性は罪深いものだとされた…女性は剃刀の刃、毒、蛇、火を1つにしたものである…人間が創生されたとき、マヌは女性に、嘘つき、怠惰、宝飾品への見境のない執着[😅]、怒り、卑劣、不実、また不品行を割り当てた…シャタバタ・ブラーフマナではすでに、女性、シュードラ、犬、カラスはいずれも、嘘、罪、暗黒を体現したものと述べている…女性の生来的な性質が卑しく邪悪であるという観念が広く浸透していたために、仏教文献にもその言及がある。あるジャータカ物語(本性譚)では、女性というのは邪悪と狡猾さからなる性なので、嘘を真実とし、真実を嘘とするとされた…他のジャータカ物語では、『怒りこそ女、悪口のかたまり、仲違いと闘いを煽るもの』と述べられている。女性は本能によって動くもので、その激情はとどまるところを知らないのである」30-1頁
「国家の成立後、バラモン教の規範的文献、および準世俗的な文献であるアルタシャーストラが、性規範の違反に関する罰則を定め、王はそれを執行することが期待された。これらの文献は、男性としての宗教的義務を果たすために子孫が必要であり、『正当な』相談を行わなければならないという、夫たちがもつ一般的な心配事ともに、カーストにもとづく階層的社会秩序の維持に関する懸念をも反映している。カーストは、浄ー不浄の原則を侵すことなく再生産されなければならなかったのである。カーストの再生産の責任が女性に課せられることで、姦通の意味はより重くなった。マヌは姦通に関する記述において、以下のように断定する。『姦通により、人々の間でカーストの混合が引き起こされる。その罪は、根さえも切り刻みすべての破壊をもたらす』」38-9頁
「中国と日本古代の[服忌令の]このような大きな差異は、親族組織および婚姻形態における彼我の相違にもとづくと考えられる。
第1に親族組織であるが、古くから中田薫・牧野巽両氏によって、養老儀制令五等親条が唐礼の五服制を模倣したものであるのに対して、養老喪葬令服紀条はわが国固有の親族制を反映したものであることが指摘されている。そして中田薫氏は、わが国固有の親族制の特徴として、(1) 母党母族が中国におけるよりもはるかに高い地位を占めていること、(2) 姻族関係が最小限度において認められているにすぎないこと、(3) 親族分類法として独自の分類法、すなわち直系尊属以外の親族は、己系・父系・祖系の3系を通じて、その始祖に対する各親の世数に従って、これを縦に類別する方法がとられていたこと、を挙げられる」51-2頁
↑ 中田 薫(1943)「日本古代親族考」『法制史論集』3
「日本古代の親族組織は、中国のそれと異なっており、服紀条にはそれが反映されていたといわれているが、第2に、婚姻形態も中国のそれとは相違していた。
中国の婚姻形態は、妻が花轎(紅色の装飾を施した花嫁用の駕籠)に乗って夫の家に迎えられるという方式に端的に示されているように、妻が婚姻によって夫の宗に入り、これに所属することになる、というものである。すなわち嫁入婚であった。
これに対して日本古代の婚姻形態については、周知の通りさまざまな議論がなされていて定説を見ないが、多くは妻問にはじまり、やがて夫婦関係に至るものの、必ずしも夫方居住ではなく、妻方居住や独立居住も少なくなかったとするのが、現在における一般的見解かと思われる。
したがって古代の日本の婚姻形態は、中国のような婚姻によって妻が社会的に夫の宗に帰属する婚姻形態とは異なっていたと考えてよいであろう。日本では、多くの場合、婚姻によって妻が夫方の集団にとり込まれるのではない、ということが、親族組織の相違と相俟って、中国の礼制とは異なる、妻から見て実家中心的な令の服紀令を生み出したといえよう」52頁
「近世の嫁入婚における出稼女の生家帰属と関連して、従来、次のような研究がなされている。
①民俗学の研究によって、嫁入後も生家とのつながりが強固である婚姻形態——たとえば嫁のセンタク帰り、ヒヲトル嫁など——が存在したことが知られている。
②社会人類学の立場から清水昭俊氏は…特殊な嫁入婚だけでなく、一般的な、妻が夫の家に入る嫁入婚においても、嫁は、時期によってウェイトがどちらに置かれるかの差はあれ、婚家と生家に両属するものであったと指摘されている。
③江守五夫氏は、これを両属とみるのではなく、出稼女が婚家に帰属する嫁入婚の他に、出稼女が生家に帰属する嫁入婚が、古くから存在したのであると主張される。
④洞富雄氏は、古代から明治民法前までの日本で、妻が生家の氏を名乗るのが通例であったことから、妻の異族的性格を看取された。
⑤山中永之佑氏はこれを受けて、明治前期において妻に対して所生の氏を称することが強制されたのは、家族における妻の異族的性格を明確にさせ、妻の劣位を確定する意義と機能を果したものであり、妻をも含む広義の家族概念と、妻を含めない狭義の家族概念が存在したと述べられ、このような妻への『所生ノ氏』の強制と狭義の家族概念は、江戸時代の武士的氏観念、『家』観念を継承したものにほかならないと」57頁→
「中国語の『セー(sae)』は、スコットランド語の『クラン(氏族)』に類似し、仲間や集団を意味する。あるいは、宗教的な用語を使えば、セーは『サムナック』(同じ分派や宗教団に属している学派や集団…)と類似している。サクンという語は、英語の『ファミリー』と同じ意味である。セー(クラン)とサクン(家族)の間の重要な違いは、同じセーに属する人々は必ずしも互いに血縁関係にない一方で、実際に血縁があるか養子にならない限り同じクランとみなされることはないということである。
セーすなわち『クラン名(氏族名)』は、ナームサクンすなわち『家名』よりずつと以前から存在した伝統である。…
中国人が『セー』、スコットランド人が『クラン』、そしてイングランド人が時に『トライブ』とよぶような多人数の集団形態は、人々が高いレベルの進歩(文明化)を成し遂げる以前に起こったものだ。人々は、互いへの思いやりにもどつく道徳を実践する方法については、まだ知らなかった。それは人々がいまだ食物や住居や女性を手に入れるために互いに争い、殺し合っていた時代であった。より多くの仲間を得た集団が、より少ないあるいは仲間のいない集団に勝り、生き残ったのだ。そのため、自身の集団の成員数を増やす方法を考えることが必要となった」86-7頁→
(承前)「同じ地域に住んでいれば人々はお互いを知っているが、時に人々は分散し、故郷を離れる必要があった。集団を去り、故郷から離れた場所で出会ったものの、互いに同じ集団の出身であるとわかっていない場合には、人々は何らかの理由で傷つけ合ってしまうかもしれない。そのため、同じ集団に属していることがわかるように、違いを認識する何らかの方法が必要であった。最初は同じ装いをすることが決められた。…そして、人々がさらに文明化してその思考がより高いレベルに進歩したとき、成員のファーストネームにつけるセーを選択するというアイデアを発展させたのだ。こうして、同じ集団の成員がどこかで出会ったとき、セーを尋ねるだけで違いが認識できるようになった。こうして、中国人は『セー』を発展させ、スコットランド人はクラン名をもち、アメリカのインディアンは『トーテム』名をもつようになった。彼らは、集団の成員が互いに認識できるシンボルも用いた。例えば、スコットランドでは『タータン』…とよばれる一種の模様つきの衣服を着た。それぞれのクランは特定の種類のタータンを用い、そのクランの人々は皆同じ装いをした」87頁
「中国のセーやスコットランドのクランやインディアンのトーテムの目的は、敵を撃退し自分の集団の成員を助けることであったため、セーやクランやトーテムといった名は(その集団の)誰もが有しており、その使用は血縁関係にある人々だけに限られていなかった。…クラン名を使うというスコットランドの伝統は、中国の伝統と類似している。セーとクラン名は同じ目的をもっているのだ。…中国人のセーやスコットランド人のクラン名やインディアンのトーテムの使用は、同じ言葉の人々がチャート(ネーションもしくは国家、国民)として集まるより以前に、時代の必要性に合わせて考えられた実践であり、過去においては有益であった伝統なのである。
…さまざまな集団が、同じように進歩したわけではなかった。中には他よりも早く進歩した人々もいた。…このため、今日の世界にはさまざまな伝統が存在する。例えばインド人はセーも家名ももたず、アメリカのインディアンはトーテム名のみをもっており、中国人はセーをもっているが、彼らはみな家名をもってはいない。家名をもつのはより進んだ人々の習慣で、彼らは他よりも遅れて発展したが、そこに追いつき追い越すことができた」87-8頁
「わが国で『家族制度』とよばれるものは、決して一様のものではない。第1に、<民法の規定>のみが、われわれの問題の対象であってはならない。民法に規定されている『家族制度』は、武士階級的家族制度の一部分であり、そうして武士階級的家族制度は、わが国の家族制度の一部分にすぎないのである。また注意しなければならぬのは、わが国に支配的な『家族制度』の<教説>は封建的支配階級のそれ、すなわち儒教的家族制度論であり、わが国で『家族制度の美風』が説かれるときには、ほとんどいつもきまって、儒教的家族倫理が説かれてきた、ということである。しかし、直接生産者たる農民や漁民やまた都市の小市民の家族の制度は、これとは異なる別の形態をもっている。…わが国の『家族制度』は、あきらかにこの2つの類型のものを含んでおり(わが国には典型的な近代家族は<きわめて>まれであるし、またそれはここで分析批判の対象としてとりあげる必要もない)、この2つの類型の原理が、しばしば多かれ少なかれ混りあいまた滲透しあって、われわれの生活を構成しているのである。…右の2つの類型は、相互にかなりその原理を異にしながらも、民主主義的な、すなわち『近代的』な原理(特に家族原理)と対照して眺めると、いずれも『前近代的』なものとして1つの共通な姿においてあらわれる113
「<庶民家族の基本原理>…
私の見るところでは、民衆の家族生活には、儒教の家族制度とは異るものがあるように思われる。武士や地主——特に上層地主——や貴族等の儒教的家族においては、全家族の生活は家長の財産、家長の地位に依存しており、家長以外の家族は家長に寄生する。そこでは、家族生活の秩序は家長の権力に集中し、これから分化した独立のものとしての夫権や親権の存在は弱いと認められる。しかし、民衆の家族生活の構造はこれとは異っている。典型的な例として、直接に耕作に従事する農民の家族を考えよう。そこではすべての家族員が、女はもとより子供も老人も、それぞれその能力に応じて家族集団の生産的労働を分担する。全く労働能力のない者以外は、だれも家長の財産に寄生はしない。またそのようなことは経済的に許されない。だから、そこには、儒教的家族におけるような型での家長の権力や権威は存しないのである。ここでは絶対的な権威と恭順とではなく、もっと『協同的な』雰囲気が支配する。各人がそれぞれに固有の生産物労働を分担することに対応して、各人は家族内で固有の地位をもち、したがって戸主権とともに、父権、夫権、主婦権等が分化して成り立っている。あの儒教的な縦の支配関係のかわりに、ここには、『たがいにむつみあう』横の協同関係が存在する」116頁→
(承前)「このことだけを見るならば、それは近代的であるかのごとき外観を呈する。しかし、この家族の制度もまた近代的-民主的とは言われえぬのである。では、それはどのような理由によってであるのか。
まず第1に、ここでも家族の『秩序』は1つの権威である。それは、永い伝統によって、動かしがたい抗しがたい客観的制度に固定しており、その中に生きている人々に対し絶対的な権威として君臨する。人々は、その制度ないしその規範に対し、自主的に対立し自分自身の独立な判断によって自分の行動を決定し得るわけではない。家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に『外』から人を拘束するのである。のみならず、ここでも権力ないし権威の現実のにない手たる人間がいないわけではない。権威は家長・長老・父・主婦等に分属しているのであり、ただ絶対的な専制がないというだけのことである。これらの者は、伝統によって固定した一定の<職分>をもっているのであり、それはやはり犯しがたい抗しがたい権威をそなえている」116-7頁
「しかしここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ<人情的情緒的>性質をおび、だから権力が権力としてあらわれない、ということである。権威は、あたたかな人情的情緒的<雰囲気>のなかにあり、だから、同時に協同体的意識をともなっている。個々の人間の『権威』はしばしば希薄となり、家族の全体的『秩序』のみが全体に対し『権威』をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的な恭しい畏敬は支配しないで、<くつろいだ>・<なれなれしい>・<遠慮のない>雰囲気が支配し、それを、且つそれに媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。
…儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によって——したがってまた、政治権力や法律による強制によって——維持され得るしまた維持される必要があるが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必要もない。ここでは、人情・情緒が決定的である」117頁
「しかし、だからと言って、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかと言えば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省を許さぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、『外から』規定されることなく自らの『内から』の自律によって媒介されるところの『道徳』が支配するからである。だから、ここでは何びとも<個人として>行動することはできないし、<独立な個人としての>自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な秩序の雰囲気につつまれ、そこに支配する<必然性の客体>として、自らを意識しなければならない。
…すべての意識と行動との根拠であり原因であるのは<雰囲気>である。何びとにも責任感はなく、責任があるのはただ雰囲気である。またここでは<近代的>な人格の相互尊重も存在しない。そこには専制支配はないが、その関係は自主的な個人によって媒介されているのではなく、むしろ自主的な個人を不可能にするところの全体的雰囲気のなかにおいてのみ個人は存在しているからである」117-8頁
「宗族ならびに宗族制度は、村レベルで維持されることになったのみならず、生産大隊のリーダーシップとしての役割を果たすか、あるいはそれに対するパランスをとっていた。人民公社が設立された際に、老瞿村と他の8つの村は一緒になって生産大隊を形成した。そのうち、張姓・瞿姓・蔡姓の宗族が、この順番で大きな人口をもっていた。そのため、生産大隊の3つのおもな役職はこの3大宗族姓にそれぞれ割り当てられた。…
土地改革から人民公社の設立まで、国家は中国農村部の政治システムを完全に作り変えた。それはいかなる意味においても、地主階級のエリートが地域の権力を支配する可能性を排除し、制度化された宗族システムに終止符を打った。しかし、その変革は農民たちの日常生活のスタイルを変えることはなく、その結果、この日常生活のあり方から生じる宗族を基盤とする組織とその観念、リーダーシップの構造を除去することはなかった。…伝統的な宗族の構造を基盤とする人々が、新しい制度下でもリーダーを務めたということである。このことは宗族と政治権力の合体を意味する。毛沢東は井崗山において、すでにこうした新しい政治制度と伝統的社会組織との同質性を見抜いていた。彼によれば村落における党の組織は、居住地域の関係でしばしば同じ姓の人が1つの党支部を構成しており132-3
「律川村においても、宗族リーダーが存続した。このことは大躍進期の飢饉時において農民たちが生き延びる助けとなった。律川村では宗族リーダーは外部のリーダーには取り替えられなかった。この村は自然条件に恵まれ農作物の不作を経験してはいない。しかし、1959年から1960年に人民公社はすべての食糧を徴収していき、食糧の供給はきわめて限られていた。これは人為的な理由による飢饉を引き起こした。しかし、程金華などの宗族リーダーは、その智慧と宗族の結束力をもって困難を乗り越えることができた。第1に、人民公社から稲の種の配給があった際に、種を食用とすることを罰さず、飢餓から逃れるために種もみを食べさせた…次に、リーダーたちは勇敢にも収穫量を低く申告した。それでもやはり、過少申告と転用では限られた量の食物しか確保できず、食堂を数日しか運営できなかった。結果的に律川村のリーダーは食物を隠すという第3の戦術を使用した。人々は以前に祠堂であった食堂に大量の棺桶をおき、その中に大量の里芋を隠した…伝統的に祠堂にある棺桶に外部の者が手を触れることは不適切であると考えられていた…大躍進期に律川村では餓死者は出なかった。祖先の庇護を受けた里芋はすべての子孫たちの命を救った。このように宗族リーダーの存続、宗族の結集力がこの奇跡を起こし135
「1949年から1979年までの間、政治権力を用いた国家による再構築の努力は、国家と農民の間に理想的な社会契約を構築することを目的としていた。そのような再構築は宗族システムの解体を要求していた。なぜなら新しい社会契約の安定性は、農民の忠誠心が伝統的な血縁に対するものから現代の国民国家へのそれへと切り替えることにかかっていたからだ。しかし、老瞿村・東于村・律川村の研究は、政府は宗族によるリーダーシップを一時的には破壊したが、伝統的な宗族共同体そのものが根本的に揺らぐことはなかったことを明らかにした。…農民は、中国社会の近代化のプロセスの中でもっとも近代性を備えておらず、かつもっとも権力がない集団であり、農民たちの利益は守られる必要があった。そのために、大躍進運動や粛清運動といった経済政策や政治運動に起因する国家による社会契約の破壊が進んだ際には、農民たちは伝統的な社会資源である宗族に頼るしか、自分自身の利益を守り生き延びるための方法はなかった。さらに、農民たちは、大躍進運動から教訓を得て、その団結力は、国家権力の増長に伴い皮肉にも伸長した。…政治権力は、血縁と地縁を基盤とする個人間の連帯を切断することができなかった」140頁
Dube, Leela. (1986) “Seed and Earth: The Symbolism of Biological Reproduction and Sexual Relations of Production,” in Leela Dube, Eleanor Leacock and Shirley Ardener (eds.), Visuality and Power: Essays on Women in Society and Development, Oxford University Press, pp.22-53. =長岡 慶・押川文子訳「種子と大地——生物学的再生産と生産における性的関係をめぐる象徴性」、170-97頁
「インドでは、少数の例外地域を除けば、父系出自原則が、集団への所属、相続の方向、および継承権の基本とされている。また結婚後の一般的な居住形態は父系拡大家族である。女性に認められてきた権利は、被扶養権のみだった。大部分の地域のヒンドゥー教徒に適用されてきたミタクシャーラ法体系によれば、男児は出生時に先祖代々の財産に関する譲渡することのできない権利を得る。相続財産共有の観念がこの法の運用を統御してきた」184頁
「前期の首長墳について、その分析結果をまとめると、おおよそ次のようになる。
・古墳時代前期(5世紀中葉以前)において、各地域の中心となる首長墳の中核部分に熟年女性が単独で埋葬されている例、複数埋葬のうちの中心人物が熟年女性である例などを含めて、女性首長の存在は、九州から関東にまておよぶ。
・副葬品からみて、地域政治集団の女性首長は祭祀権だけではなく、軍事権・生存権をも掌握しているとみられ、同時期の男性首長と同様の主張権を持つ。
・小集団を背景とする女性小首長の中には、祭祀的・呪術的性格の濃いものも含む。
・成人男女2体の首長埋葬や、男性首長につぎ第2の地位を女性埋葬が占める例も多く、首長権の一部を分担した女性が広く存在した。
・男性首長の単独中心埋葬は、女性首長例に比べてわずかに多い程度で、男女2体を中心部に埋葬する例よりは少ない。
・大王墓を含む巨大古墳の多くは、現在も発掘が制約されていて、被葬者の性別を判断できない。
…日本の古代に、女性首長がまれな例外としてではなく、男性首長と肩を並べて広く存在していた、ということだけはほぼ間違いなくいえよう。『風土記』の伝承には、それを生み出すだけの現実的背景があったのである」212頁
「『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』といった書物からわかる日本古代の婚姻は、妻問婚といわれるものである。ツマというのは、一対の片方をさす言葉で、男からみた妻もツマ、女からみた男もツマである(この用法は、現在でも短歌の世界などには残っている)。男女どちらかが、自分の気にいった相手に『あなた、わたしのつれあい(ツマ)になってくれませんか?』と求愛・求婚の問いかけをし、相手がOKすれば、ただちに2人はむすばれる。結婚生活がはじまっても、普通、すぐには同居しない。それぞれの親・兄弟と生活・労働をともにし、夜になると相手方に通い、朝には帰る。男女どちらからの通いもあるが、多くは男が通った。子どもが生まれると、自然の成り行きとして、母方で育てられる。子どもが何人か生まれるころには同居するが、ずっと通いのこともあり、同居に至る前に関係が切れることも、同居後に別れて出ていくことも頻繁にあった。夫婦関係は、のちの時代とは比べものにならないくらい、流動的だったのである」228頁
「律令制以前には、男女を交えた集団労働が行われ、生産物は集団的に貢納されていた。男女個々人を厳格に台帳上で識別する必要はなかったのである。しかし、律令租税制のもとでは、調庸は人頭税として成人男性の一人一人に課される。実際には女性の生産物であっても、男性の名前で納められ、効率的・計画的な国家財政システムの構築が可能になった。徴兵制の成立と戸籍制度の成立は密接不可分で、成人男性を画一的に徴発する律令軍団制も同時に整った。奴婢は氏姓をもたないことで一般良民と区別され、さらに男女で法制上の扱いが異なるので、戸籍上の婢の名前にはすべて『メ』がついている。女性名接尾辞『メ』は、それまで集団として生存していた人々の一人一人について、生物的に男・女の区分(セックス)を判定し、それを公的負担上での”男””女”の区分(ジェンダー)に転化・明示する意味をもつ記号だったのである」243頁
「いわゆる『姉妹型一夫多妻婚』とは1人の男性の複数の妻が姉妹同士であることを指している。そのような婚姻形態は、古代の世界各地のさまざまな民族における一夫多妻婚の段階にしばしば見られる。例えば…中国の周代の『腰制』はそれである。そしてこのような婚姻形態は春秋時代にも引き続き見られた。…日本の『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『先代旧事本紀』などの古代史料の中でも、こういった婚姻形態は枚挙にいとまがない。…中国古代の魯と斉の国の間の婚姻は、日本の古代文献に記載される『姉妹型一夫多妻婚』という婚姻形態からいえば同じである。しかし中国の場合『姉妹型一夫多妻婚』を行う一方で『同姓不婚』という婚姻規則を貫いているのに対し、日本古代では『異母兄妹婚』が普遍的に見られることから、両国の婚姻形態・婚姻規則は異なる性質を持ったものであるといえる」246-7頁
「父系制社会では父方平行イトコ婚、母系制社会では母方イトコ婚が禁忌される。父の兄弟とその子供および母の姉妹とその子供は自己と同じリネージの人間であると考えられているため、平行イトコ婚が禁止されている社会では、社会的血縁関係は父系と母系に分かれるばかりでなく、父系親族・母系親族どちらもがそれぞれリネージとなり得る。つまり血縁集団構成員資格(membership)の継承・伝達においては父系と母系が独立した位置に置かれているのである。このような血縁構造は『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』/bilinear filiation)といわれる。この『双系出自』(『二重出自』、『両系出自』)はすべて平行イトコ婚を禁止し、父と母の血統が分けられるのを前提としているのである」253頁
「中国古代の魯・斉両国間の婚姻は生物学的に近親婚である。しかし、『同姓不婚』の婚姻規則は、両国間で行われたような『姉妹型一夫多妻婚』による近親婚を父系宗族の範囲外で行うことにした。このような族外婚制は血縁親族の構成員を血族と姻族に分け、父系と母系という異なる血縁系統に分けるという重要な役割を果たす。まさにこのような意味において、中根千枝氏は『族外婚』を父系制・母系制と連動した重要な婚姻規則であると考えている。
中国古代における『同姓不婚』を前提とする『姉妹型一夫多妻婚』とは異なり、日本古代社会では『姉妹型一夫多妻婚』と同時に『異母兄妹婚』も広く行われていた。…このような婚姻は平行イトコ婚でも交叉イトコ婚でもなく、父方から見ても、母方から見ても文化人類学的には族内婚と見なされる。このように日本古代社会における『姉妹型一夫多妻婚』は『異母兄妹婚』と同時に現われるところにその重要な特徴がある。…日本では血縁構造を父系・母系に分かつことはできない。それは『母系制』『父系制』『双系制』のいずれでもない。つまり『出自』系統は持たない。無系的および血統上での未分化のキンドレッドの範疇に属するべきものである」255頁
「日本では、女子も祖先の血統を受け継ぎ、結婚後も男性と同等な『血縁集団構成員資格(membership)』を有したということである。皇族には、同一祖先の下の男性と女性が含まれるということになる。…したがって、こうした血縁集団は血縁の『系統』を持たず、それゆえ『母系制』『父系制』のいずれでもない。そして『双系制』は単系を前提としている以上、日本古代の血縁集団は『双系制』でもなかったはずである。
また、この社会では、父の兄弟または子女との婚姻が普遍的なものであったために、西野[悠紀子]氏は『父系近親婚』と名づけた。しかし著者は、このような婚姻形態のもとでは必然的に父方の近親婚だけでなく、母方の姉妹とその子女との近親婚も存在していたと考える」262頁
「インドのさまざまな地域の民族誌や文献は、ウルスラ・シャルマが『土地は本来的に男性形資産であると特定するイデオロギー』…と語ったものの存在を示している。娘に結婚に際して小さな土地を与えることが慣習である地域でさえ、それは財産の取り分ではなく贈与とみなされていることは重要である」185頁