「<文明以前の家族>
中国やインドでは、早い時期に文明が発展するとともに国家が成立した。国家が成立する以前の家族は、多様なものであったと考えられるが、国家の統制によって画一化したとも考えられる。…周辺地域は、インドや中国に遅れ、各地域の特徴を残しながら同方向の変化を遂げていったと考えられる。
…中国の古代社会については、家父長制であったという考えが優勢であった。しかし、1990年以降出土史料の研究が盛んに行われたことで、家父長制への疑問が出されている。中国の家族を家父長制として捉えることには儒教が影響している。…儒教の影響によって、中国の家族が家父長制になるのは漢代以降であり、それ以前は非家父長制であった。小寺敦は『春秋左氏』の分析から戦国時代に家族史的な画期があるとし、それ以前は父系的ではなかったとする」2-3頁
「ビームベートカ(紀元前約5000年)における最近の洞窟壁画研究では、女性は果物や野生の農産物の採集に従事し、小動物の狩猟において籠や網を使用していたとみられている。狩猟採集段階にある社会において、女性は母としての役割と採集者としての活動とを組み合わせていた。壁画には2人の子どもを籠に入れて肩にさげ頭には動物を載せた女性や、籠や網をもった女性(しばしば妊娠した姿で描かれている)、角をもって鹿を引きずっている女性、漁を行っている女性などの絵もみられる…集団狩猟の壁画にも女性が含まれている。精巧な頭飾りからは、狩猟の成功を確実にするために、女性たちが象徴的にも実際的にも狩猟に参加していたことが示されている。
したがって、これらの中央インドの洞窟壁画は、男性は狩猟、女性は採集という、一般に狩猟採集時代の前提とされてきた性別役割分業は厳格には存在していなかったことを示唆している。中石器時代において、採集は熱帯気候である中央アジアの主要な食糧源であり重要な仕事であった。女性はそれを引き受ける一方で、狩猟にも参加していたとみられている。つまり、経済上の女性の役割は、男性のそれよりも大きくはなかったとしても、少なくとも同等だった」27頁
「統制不能な女性のセクシュアリティは脅威をもたらすと認識され、古代インドの諸々の物語群や規範的文献には、女性の『貪欲な』欲情と邪悪さへの言及が溢れることになった。
マハーバーラタにおいてビシュマからユディシュティラに語られたアシュターヴァクラの話は、女性の『真の』本質と考えられていた破壊的で悪魔的な欲望を生々しく描いている。結婚の準備のためアシュターヴァクラは女性の苦行者のもとへ送られたが、その苦行者は高齢にもかかわらず繰り返しアシュターヴァクラを誘惑する。苦行者は、アシュターヴィクラに、女性にとって性交にまさる喜びや破壊的衝動はないこと、高齢の女性でさえ性的な情熱で我を忘れること、そして、女性の性欲は3つの世界すべてにおいて、決して克服できるものではないことを告げた…アサタマンタ・ジャータカにおいても、高齢の女性でさえ性的な危険要因になりうると、この教えが繰り返される。
統制不能な女性のセクシュアリティに対するこの恐怖が、女性を支配するための効果的な制度の形成と、女性をつねに監護する必要性への強迫観念の背後にあった。女性への支配が緩む、あるいはその効果が薄れると、その途端に女性の無秩序な性欲が密通を引き起こすのである」33頁
「一般的に女性の『本質』がそのセクシュアリティと同一視される状況があった。女性の本質は罪深いものとみなされるのが一般的だった。ある文献では、すべての始まりのとき以来、すなわち創造主が最初に5大元素と3つの世界を創り、次に男女を創造したそのとき以来、女性は罪深いものだとされた…女性は剃刀の刃、毒、蛇、火を1つにしたものである…人間が創生されたとき、マヌは女性に、嘘つき、怠惰、宝飾品への見境のない執着[😅]、怒り、卑劣、不実、また不品行を割り当てた…シャタバタ・ブラーフマナではすでに、女性、シュードラ、犬、カラスはいずれも、嘘、罪、暗黒を体現したものと述べている…女性の生来的な性質が卑しく邪悪であるという観念が広く浸透していたために、仏教文献にもその言及がある。あるジャータカ物語(本性譚)では、女性というのは邪悪と狡猾さからなる性なので、嘘を真実とし、真実を嘘とするとされた…他のジャータカ物語では、『怒りこそ女、悪口のかたまり、仲違いと闘いを煽るもの』と述べられている。女性は本能によって動くもので、その激情はとどまるところを知らないのである」30-1頁
「国家の成立後、バラモン教の規範的文献、および準世俗的な文献であるアルタシャーストラが、性規範の違反に関する罰則を定め、王はそれを執行することが期待された。これらの文献は、男性としての宗教的義務を果たすために子孫が必要であり、『正当な』相談を行わなければならないという、夫たちがもつ一般的な心配事ともに、カーストにもとづく階層的社会秩序の維持に関する懸念をも反映している。カーストは、浄ー不浄の原則を侵すことなく再生産されなければならなかったのである。カーストの再生産の責任が女性に課せられることで、姦通の意味はより重くなった。マヌは姦通に関する記述において、以下のように断定する。『姦通により、人々の間でカーストの混合が引き起こされる。その罪は、根さえも切り刻みすべての破壊をもたらす』」38-9頁
「中国と日本古代の[服忌令の]このような大きな差異は、親族組織および婚姻形態における彼我の相違にもとづくと考えられる。
第1に親族組織であるが、古くから中田薫・牧野巽両氏によって、養老儀制令五等親条が唐礼の五服制を模倣したものであるのに対して、養老喪葬令服紀条はわが国固有の親族制を反映したものであることが指摘されている。そして中田薫氏は、わが国固有の親族制の特徴として、(1) 母党母族が中国におけるよりもはるかに高い地位を占めていること、(2) 姻族関係が最小限度において認められているにすぎないこと、(3) 親族分類法として独自の分類法、すなわち直系尊属以外の親族は、己系・父系・祖系の3系を通じて、その始祖に対する各親の世数に従って、これを縦に類別する方法がとられていたこと、を挙げられる」51-2頁
↑ 中田 薫(1943)「日本古代親族考」『法制史論集』3
「日本古代の親族組織は、中国のそれと異なっており、服紀条にはそれが反映されていたといわれているが、第2に、婚姻形態も中国のそれとは相違していた。
中国の婚姻形態は、妻が花轎(紅色の装飾を施した花嫁用の駕籠)に乗って夫の家に迎えられるという方式に端的に示されているように、妻が婚姻によって夫の宗に入り、これに所属することになる、というものである。すなわち嫁入婚であった。
これに対して日本古代の婚姻形態については、周知の通りさまざまな議論がなされていて定説を見ないが、多くは妻問にはじまり、やがて夫婦関係に至るものの、必ずしも夫方居住ではなく、妻方居住や独立居住も少なくなかったとするのが、現在における一般的見解かと思われる。
したがって古代の日本の婚姻形態は、中国のような婚姻によって妻が社会的に夫の宗に帰属する婚姻形態とは異なっていたと考えてよいであろう。日本では、多くの場合、婚姻によって妻が夫方の集団にとり込まれるのではない、ということが、親族組織の相違と相俟って、中国の礼制とは異なる、妻から見て実家中心的な令の服紀令を生み出したといえよう」52頁
「近世の嫁入婚における出稼女の生家帰属と関連して、従来、次のような研究がなされている。
①民俗学の研究によって、嫁入後も生家とのつながりが強固である婚姻形態——たとえば嫁のセンタク帰り、ヒヲトル嫁など——が存在したことが知られている。
②社会人類学の立場から清水昭俊氏は…特殊な嫁入婚だけでなく、一般的な、妻が夫の家に入る嫁入婚においても、嫁は、時期によってウェイトがどちらに置かれるかの差はあれ、婚家と生家に両属するものであったと指摘されている。
③江守五夫氏は、これを両属とみるのではなく、出稼女が婚家に帰属する嫁入婚の他に、出稼女が生家に帰属する嫁入婚が、古くから存在したのであると主張される。
④洞富雄氏は、古代から明治民法前までの日本で、妻が生家の氏を名乗るのが通例であったことから、妻の異族的性格を看取された。
⑤山中永之佑氏はこれを受けて、明治前期において妻に対して所生の氏を称することが強制されたのは、家族における妻の異族的性格を明確にさせ、妻の劣位を確定する意義と機能を果したものであり、妻をも含む広義の家族概念と、妻を含めない狭義の家族概念が存在したと述べられ、このような妻への『所生ノ氏』の強制と狭義の家族概念は、江戸時代の武士的氏観念、『家』観念を継承したものにほかならないと」57頁→
「中国語の『セー(sae)』は、スコットランド語の『クラン(氏族)』に類似し、仲間や集団を意味する。あるいは、宗教的な用語を使えば、セーは『サムナック』(同じ分派や宗教団に属している学派や集団…)と類似している。サクンという語は、英語の『ファミリー』と同じ意味である。セー(クラン)とサクン(家族)の間の重要な違いは、同じセーに属する人々は必ずしも互いに血縁関係にない一方で、実際に血縁があるか養子にならない限り同じクランとみなされることはないということである。
セーすなわち『クラン名(氏族名)』は、ナームサクンすなわち『家名』よりずつと以前から存在した伝統である。…
中国人が『セー』、スコットランド人が『クラン』、そしてイングランド人が時に『トライブ』とよぶような多人数の集団形態は、人々が高いレベルの進歩(文明化)を成し遂げる以前に起こったものだ。人々は、互いへの思いやりにもどつく道徳を実践する方法については、まだ知らなかった。それは人々がいまだ食物や住居や女性を手に入れるために互いに争い、殺し合っていた時代であった。より多くの仲間を得た集団が、より少ないあるいは仲間のいない集団に勝り、生き残ったのだ。そのため、自身の集団の成員数を増やす方法を考えることが必要となった」86-7頁→
(承前)「同じ地域に住んでいれば人々はお互いを知っているが、時に人々は分散し、故郷を離れる必要があった。集団を去り、故郷から離れた場所で出会ったものの、互いに同じ集団の出身であるとわかっていない場合には、人々は何らかの理由で傷つけ合ってしまうかもしれない。そのため、同じ集団に属していることがわかるように、違いを認識する何らかの方法が必要であった。最初は同じ装いをすることが決められた。…そして、人々がさらに文明化してその思考がより高いレベルに進歩したとき、成員のファーストネームにつけるセーを選択するというアイデアを発展させたのだ。こうして、同じ集団の成員がどこかで出会ったとき、セーを尋ねるだけで違いが認識できるようになった。こうして、中国人は『セー』を発展させ、スコットランド人はクラン名をもち、アメリカのインディアンは『トーテム』名をもつようになった。彼らは、集団の成員が互いに認識できるシンボルも用いた。例えば、スコットランドでは『タータン』…とよばれる一種の模様つきの衣服を着た。それぞれのクランは特定の種類のタータンを用い、そのクランの人々は皆同じ装いをした」87頁
「中国のセーやスコットランドのクランやインディアンのトーテムの目的は、敵を撃退し自分の集団の成員を助けることであったため、セーやクランやトーテムといった名は(その集団の)誰もが有しており、その使用は血縁関係にある人々だけに限られていなかった。…クラン名を使うというスコットランドの伝統は、中国の伝統と類似している。セーとクラン名は同じ目的をもっているのだ。…中国人のセーやスコットランド人のクラン名やインディアンのトーテムの使用は、同じ言葉の人々がチャート(ネーションもしくは国家、国民)として集まるより以前に、時代の必要性に合わせて考えられた実践であり、過去においては有益であった伝統なのである。
…さまざまな集団が、同じように進歩したわけではなかった。中には他よりも早く進歩した人々もいた。…このため、今日の世界にはさまざまな伝統が存在する。例えばインド人はセーも家名ももたず、アメリカのインディアンはトーテム名のみをもっており、中国人はセーをもっているが、彼らはみな家名をもってはいない。家名をもつのはより進んだ人々の習慣で、彼らは他よりも遅れて発展したが、そこに追いつき追い越すことができた」87-8頁
「わが国で『家族制度』とよばれるものは、決して一様のものではない。第1に、<民法の規定>のみが、われわれの問題の対象であってはならない。民法に規定されている『家族制度』は、武士階級的家族制度の一部分であり、そうして武士階級的家族制度は、わが国の家族制度の一部分にすぎないのである。また注意しなければならぬのは、わが国に支配的な『家族制度』の<教説>は封建的支配階級のそれ、すなわち儒教的家族制度論であり、わが国で『家族制度の美風』が説かれるときには、ほとんどいつもきまって、儒教的家族倫理が説かれてきた、ということである。しかし、直接生産者たる農民や漁民やまた都市の小市民の家族の制度は、これとは異なる別の形態をもっている。…わが国の『家族制度』は、あきらかにこの2つの類型のものを含んでおり(わが国には典型的な近代家族は<きわめて>まれであるし、またそれはここで分析批判の対象としてとりあげる必要もない)、この2つの類型の原理が、しばしば多かれ少なかれ混りあいまた滲透しあって、われわれの生活を構成しているのである。…右の2つの類型は、相互にかなりその原理を異にしながらも、民主主義的な、すなわち『近代的』な原理(特に家族原理)と対照して眺めると、いずれも『前近代的』なものとして1つの共通な姿においてあらわれる113
「<庶民家族の基本原理>…
私の見るところでは、民衆の家族生活には、儒教の家族制度とは異るものがあるように思われる。武士や地主——特に上層地主——や貴族等の儒教的家族においては、全家族の生活は家長の財産、家長の地位に依存しており、家長以外の家族は家長に寄生する。そこでは、家族生活の秩序は家長の権力に集中し、これから分化した独立のものとしての夫権や親権の存在は弱いと認められる。しかし、民衆の家族生活の構造はこれとは異っている。典型的な例として、直接に耕作に従事する農民の家族を考えよう。そこではすべての家族員が、女はもとより子供も老人も、それぞれその能力に応じて家族集団の生産的労働を分担する。全く労働能力のない者以外は、だれも家長の財産に寄生はしない。またそのようなことは経済的に許されない。だから、そこには、儒教的家族におけるような型での家長の権力や権威は存しないのである。ここでは絶対的な権威と恭順とではなく、もっと『協同的な』雰囲気が支配する。各人がそれぞれに固有の生産物労働を分担することに対応して、各人は家族内で固有の地位をもち、したがって戸主権とともに、父権、夫権、主婦権等が分化して成り立っている。あの儒教的な縦の支配関係のかわりに、ここには、『たがいにむつみあう』横の協同関係が存在する」116頁→
(承前)「このことだけを見るならば、それは近代的であるかのごとき外観を呈する。しかし、この家族の制度もまた近代的-民主的とは言われえぬのである。では、それはどのような理由によってであるのか。
まず第1に、ここでも家族の『秩序』は1つの権威である。それは、永い伝統によって、動かしがたい抗しがたい客観的制度に固定しており、その中に生きている人々に対し絶対的な権威として君臨する。人々は、その制度ないしその規範に対し、自主的に対立し自分自身の独立な判断によって自分の行動を決定し得るわけではない。家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に『外』から人を拘束するのである。のみならず、ここでも権力ないし権威の現実のにない手たる人間がいないわけではない。権威は家長・長老・父・主婦等に分属しているのであり、ただ絶対的な専制がないというだけのことである。これらの者は、伝統によって固定した一定の<職分>をもっているのであり、それはやはり犯しがたい抗しがたい権威をそなえている」116-7頁
「アーリア人が一定の地域における支配の確立に成功すると、原住部族の男性の多くは逃亡するか殺され、征服者は支配下においた集団の女性たちを奴隷化した。したがって、古代インド史において最初に奴隷化された大きな集団は女性であり、女奴隷であるダーシーは男奴隷のダーサーよりも頻繁に言及されている…リグ・ヴェーダにみられるこうした叙述は、すべての征服した部族は、少なくとも征服の最初段階では敗北した部族の男性を殺し女性を奴隷化したとするラーナーの議論…と一致する。…リグ・ヴェーダの叙述は、女性の間の決定的な階層化、すなわち征服した側の女性と征服される側の女性の間の階層化を反映したものであり、きわめて重要である。例えば、リグ・ヴェーダでは二足動物と四肢動物、つまり奴隷と牛を支配するアーリア人女性が描かれている…女奴隷の労働とセクシュアリティは使役されるべきものとして存在したが、それらは総体として支配部族の男性の支配下にあった。贈り物の対象としての女奴隷の叙述は、受け取り手はつねに男性であることを示している。女性の捕獲役として、武人はしばしば女奴隷を司祭に贈っていた。原始的蓄積[?]において女奴隷の所有が重要な要素であったことは明らかである」28-9頁