よく上の世代の人が「今の若者は世代として共有している音楽や映画がない」とか「この先残るものがない」って言ってるけど、
それぞれが好きなことを楽しんでるってことが「共通項」だし、「共有されてきた音楽・映画」ってマジョリティ向けだったし、今までがおかしかったのかもって認識にならないのはなんで。
日本で“売り出されてる”音楽・映画って正直クソだし(それを好きな人を否定する訳ではない)、“若者の中で流行している”とか“若者はみんな知ってる”みたいにテレビや雑誌で言ってるのも、好きな人は好きだけど、全員が知ってる・好きなんてことは今の時代ありえないのに、若者・Z世代って枠で括ろうとしていること自体がもう終わったってことを認識して欲しいね
#Netflix のNext In Fashion ほんといいよ。「子供時代」の回は着たくもない服を着せられたことがある人は皆んな見て欲しい
誰かの(オンライン上での)発言によって傷ついたという感覚が分からない。傷ついた、傷つけられた、傷つけてしまうかもしれない、傷つけたなど、よく見かけるんだけど、分からない。
誰かの気持ちを否定したいわけではない。(この投稿を見かけた人で傷つく人はいるかもしれないが。)傷ついたこと悲しんだことそういう気持ちになることは何もおかしくはない。
だけど、自分が自分の気持ちにも他人の気持ちにも疎いのだろうか、視野が狭いし何も考えられない人間なのだろうか、と考えてしまう。他人の感情までも責任を負わないといけないのだろうか。
傷つける意図があるなら論外だが、人は完璧ではない。
多分、自分は人は完璧ではないし“傷つけられるし傷つける”そいう可能性をもって人と接するからだろうか。
#TWICE billboard women in music楽しんでそうでよかった
揚げ足を取るようなことっていくらでもできるし、SNSやあらゆる文章を自分の読みたいように読むことすら出来てしまうし、傷ついたかどうかが優先されるようになってきたじゃん。
社会のためにやっていってくれてる人が100%全能かって言うとちゃうやん、行動してくれてる人が少しミスしたり自分と合わなかったりするだけで、キャンセルするようなのがSNSになってるなと。そしてメディアや社会も少しそういう雰囲気になってきてる。
でキャンセルしてんのにされない人って、権力者や特権持ってる人だっりしてさ。本当に地道に行動してくれてた人たちが力尽きたり、場所を変えたり言葉を選んだりしなきゃいけなくなったり。
間違った方向に進んでると思うんだよね。極論対極論でやり合って、そうじゃない人たちは何も発せられないし、発しても無視されたり中途半端って言われて消え去ったり。それじゃあ社会良くならないんだけど…って思っても、思うことすら意味がない。もうあいつらどうしたらいいの。
他人の価値観で生きるんじゃねえって唱えてる
他人の価値観(結婚、子ども、就職など)に引っ張られるから落ち込むから自分の価値観で生きていこうぜ自分
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アイコンはウィリアム・ガオ、ヘッダーはティモシーシャラメです