こういう訴えは心理面接しててよく聞く。「ちょっと考えすぎでは?」と思いながら聞いているけど、後からSNSで話題になっているのを見て、思い込みの激しさもある一方で、例えば正規の公務員と非正規の公務員の間の激しい確執みたいなのはある意味では「現実化」してしまっているんだなと思ったりもする。
それは例えばジェンダーマイノリティの問題なんかでもあって、私が若い頃とは比べ物にならないような偏見や攻撃があるのを私は知らないから、最初に聞いた時には「え?そんな酷いこと言う人は稀なのでは?」とか(本人に向かって直接は言わないけど)心の中では思ってたりするけど、あとから社会全体にそういう風潮があることをSNSで初めて知ったりする。
もちろん偏見とかは元々あった…というか前の方が酷かったんだとは思うけど、それが普通に皆に共有されていた時代には表面化してなかったので、剥き出しの憎悪は見えなかったってことだとは思うけど。
https://x.com/masahironishika/status/1869511655744549192?s=46&t=7ijHXvOVYdXMvERcNmfP7w
で、職業的に私にできることは、その現実に起きていることについて、どっちが悪いとか、あなたは悪くないとか、そういうジャッジをしたり、肩を持ったりすることではないので(そんな資格は私にはない。もしそれをしてしまうと、それは私の価値観の押し付けになってしまう)、その怒りや羨みなどの奥にあるその人の感情を一緒に考えていくことだけ。
現実に起きている不正やら偏見やらと、現実世界で闘うことについては、私はやれともやるなともいう権利はない。基本的には、やりたければやれば良いとしか思わない。
但し、そのことで余計に本人に不利益が生じているように私から見て見える場合や、その人が考えるべき大事なことを考えずにいるための方便に使われてしまっているように見える場合には、一旦行動することを止めて、落ち着いて考えることを勧めたりはする。
例えばどんなに詰っても詮ないようなダメな夫とか親とかと、「このまま放っておくと一生離れずにバトルしてこの人の人生、終わっちゃいそうだけど、それってこの人にとって良いことではないのでは?」みたいな場合に、相手を詰るよりも、自分の中の怒りや悲しみに向き合って、それが何を求めて何が得られないから生じてくるものなのかを自分で考えられるようにするとか。
逆に言うと、仕事ではずっとそうやって、自分の価値観とか世界観は、一応(実際には漏れ出ちゃったりは年中してますけど)抑えている分、職業人としてではない、一市民、一個人としての自分をちゃんと持ってないと、仕事上もヤバいんじゃないか(自分のないお母さんが子どもに悪影響を及ぼすように、自分のない治療者は被治療者に悪影響を及ぼすに違いない)と思うので、
SNSで、こうやって自分の価値観や世界観を確立して、他の人たちなど世界との繋がりを持っていくことは、私にとってはとても大切なことだと思えるんですよね。
一市民としての、または個人としての自分があることと、それを面接の中でクライエントに押し付けないことは、車の両輪みたいなもので、どちらも大事だし、片っ方だけでは成り立たない。
精神分析の「隠れ身」は、あくまで面接の中で仕事をする時に、患者さんの内的な世界の邪魔をせずに、守って作業をするためにあるだけで、
現実の世界で、自分がいつも自分の考えを隠して、患者さんを含めて皆を見下ろして評論家のように安全地帯からジャッジする権利を与えられるためにあるわけではないですからね。
そこを勘違いして、現実の世界でも、または面接の中でも自分を「一般人」よりも「一段高いところ」にある安全地帯に置いて、余裕をかまして自分を守るために、「隠れ身」を自他に対して使っている臨床家って少なくない気がするんだよな。
そんな権利は誰にもないのに。