TLで教えてもらったこちらインタビュー、この「問い」じしんにあらかじめ欺瞞が埋め込まれているのだが
"例えば、『国葬に賛成か反対か』ではなく『人を弔うってどういうことなのか』。『保守かリベラルか』ではなく『国を愛するってどういうことなんだろう』という問いから始めてみる。立場が違っても、同じ問いを考えることはできる。問いでつながれる、というギリギリの可能性にかけています"
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15714527.html
去年の故人PM「国葬儀」の問題を、そこにまつわる政治性こそが問題なのに、「人を弔う」ことに抽象化するのは、きわめてイデオロギッシュですよね。そうした操作を「立場が違っても、同じ問いを考えることはできる」と正当化するのって欺瞞じゃないですか。
「保守かリベラルか」という問いの擬似問題性へと深めるのではなく「国を愛するってどういうことなんだろう」って持っていくのとか、どちて坊や発動したくなるよくわからなさ。
参照させていただいた、早川さんの引用されている、「哲学者・永井玲衣さん」、私は「朝日」を普段読んでいないので、はじめて知ったが、この人一応「サルトルを「研究」していた、ことになっているらしい。
これは驚いた。私も一応サルトル研究者のはしくれである。この人の思考様式、サルトルとは真逆である。というか、政治や社会について公的に発言する「最低限の常識」がない。
このところ、魯迅研究者を名乗る「ヒロユキ」仕草の男やサルトル研究をしていたこの方のような人々の出現には驚く日々が続いている。
真面目に批判すれば、高橋俊やら、この永井さんは、日本語訳でも魯迅やサルトルを「めくった」だけで「読んだこと」はないだろう。そもそもサルトルのテクストは研究するには「かなり難しい」。
しかし、高橋俊はただの「ネトウヨ」だから仕方ないとして、永井さんの方は登場させる『朝日』の立ち位置、言説戦略は徹底的に批判されるべきだろう。
しかし東浩紀にしても、一応デリダは読んだことにしているが、滅茶苦茶なのは、右に(上だが)同じ。
ここまで来ると、やはり日本の人文学研究の在り方そのものを根底から見直すべきだろう。
ただし、それは勿論人文学の再建・拡大のためである。 [参照]