1960年ー戦後レジーム第二期
9条を軸にした「平和主義」は、この際の民同左派と丸山眞男・久野収を東西事務局長とした平和問題談話会の同盟として誕生します。
ですから、改憲派としては、民同左派、後総評主流派と「戦後派知識人」を解体する必要がどうしてもあったわけです。
これが、言説の舞台において「戦後派知識人」、「進歩派文化人」、そして「近代主義」などなど、手を変え品を変え、負を記号として演出・攻撃されたことの根本的な背景です。
同時に、総評への攻撃も着実に進められてきました。
「民間部門」においては、1960年までは御用組合化がほぼ完了します。
例外は三井三池炭鉱でした。
三井三池の炭鉱組合に対する攻撃は1953年に一度失敗します。(この際、三菱・住友の組合は屈服)。
そして1959年に再びある意味「満を持して」決行されたのが、活動家への「指名解雇」を伴う三池炭鉱への「総資本」VS「総労働」とも言われた総攻撃です。
つまり1960年は安保闘争とともに三池争議の年でもあり、ここに戦後日本レジームの第二期が始まります。
つまり自民党は明文改憲を当面凍結する、ただし「資本」・大企業による支配に関しては一歩たりとも譲らない、という線が明確に引かれたのです。
1950年代は、北九州の筑豊などの中小炭鉱も次々と閉鎖、ないし労組は解体されていきました。
ですので、1953年に一度攻撃を退けた三池炭鉱は最後の砦だったのです。
しかし、岸退陣後、政権を継承した池田勇人は、改憲問題・治安問題には「低姿勢」をアピールしながら、三池争議に対しては国策として「弾圧」を決定。
国家権力に「弾圧」の主目標とされては、ただでさえ疲弊した三池炭鉱労組、炭労(炭鉱の全国労働組合)、そして総評にも、「降伏」以外の選択肢はありませんでした。
未だに「宏池会」的なものに期待する傾向がメディアでは後を絶ちません。
しかし、宏池会の創業者池田勇人が「貧乏人は麦を食え」の人であり、三池争議を弾圧する決定をした当事者であったことを考えれば、そのような期待は「白昼夢」に等しい、と言えるでしょう。
「疑う者は岸田文雄を見よ!」と言ったところでしょうか。
尚、筑豊の中小炭鉱の閉鎖を背景にしたのが、上野栄信「追われゆく鉱夫たち」をはじめとした、森崎和江、谷川雁の初期著作であり、そしてこのグループと石牟礼道子が結びついていくのです。
負を記号として(誤)
負の記号として(正)