現在、明治大学の平和教育登戸研究所資料館が
『極秘機関「ヤマ機関」と登戸研究所 —日本陸軍の防諜とは ゾルゲ事件80年—』という企画展を行っています。コロナという事情もあって、ウェブ上でも解説パネルなどがPDFで見られるようになっています。

meiji.ac.jp/noborito/event/spe

この企画では、

政府に対する批判がまだ可能だった1930年代、東京帝大教授・横田喜三郎が満州事変について批判的な意見を表明したころから右翼の脅迫が始まったこと、しかし横田教授の立場をまだ多くの世論は支持していたこと、その空気が1935年天皇機関説事件などを経て徐々に変質していったこと、やがて「防諜」が強調される戦時下の相互監視社会になったこと、を順を追って資料を紹介しつつ説明しています。
(「展示資料」というPDFでは横田教授に送られた中傷・脅迫の葉書も見られます)。

東大の宇野教授らの学術会議任命問題がすでに起きている現在、横田帝大教授の事件が遠い昔のことに全然思えないのですよね。

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「なしくずしの過程ーファシズムによる思想・言論統制」

 ファシズムによる思想・言論統制は一挙に実現されたわけではありません。

 28-37年の日中戦争にかけて、丸山眞男の言う「なしくずし」の過程として、展開されていきます。

 当初は共産主義者でさえ、「政治運動には参加しない」と言えば、釈放され小説は発表できました。

 ですから中野重治が『村の家』を1932年に発表したり、『日本資本主義発達講座』が1932-33年にかけて刊行されたりしたわけです。

 また1931年、満州事変勃発の際には、前年のロンドン軍縮会議に同行した国際法学者横田喜三郎は、事変勃発後これを「国際法違反」と批判します。

 これに対し、極右の蓑田胸喜率いる『原理日本』(今のWILL ,HANADAのようなもの)は横田を「非国民」・「売国奴」と攻撃。

 以降、『原理日本』は33年の京大の滝川幸辰(刑法)、35年の天皇機関説事件、37年の矢内原事件、38年河合栄次郎、39年には津田左右吉と「リベラル」と見做した研究者を次々に攻撃、辞職に追い込んでいきます。

 とくに「天皇機関説」の美濃部は当時貴族院議員でもあり、「エスタブリッシュメント」でもあったので、この国体明徴事件は、世論的にも大きな衝撃を与えます。

 
QT: fedibird.com/@chaton14/1096252
[参照]

しゃとん  
現在、明治大学の平和教育登戸研究所資料館が 『極秘機関「ヤマ機関」と登戸研究所 —日本陸軍の防諜とは ゾルゲ事件80年—』という企画展を行っています。コロナという事情もあって、ウェブ上でも解説パネルなどがPDFで見られるようになっています。 https://www.meiji.ac.jp/no...
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