朝鮮学校処遇の変遷にみる「排除/同化」
―戦後日本の「排除型社会」への帰結の象徴として
韓東賢
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/96/0/96_109/_pdf
ハントンヒョンさんによるこの論文、落ち着いて読んでみる。
2010年から始まった高校無償化対象から除外する、だけではなく、日本という国が朝鮮学校という民族学校を戦後から一貫して不当に弾圧してきたという経緯がこれでもかと読み込める。
”本稿ではこうした流れを,朝鮮学校の制度的位置づけ,処遇問題からあとづけていく。そこから見えてきたものは次の3点であると言える。①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。② 2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。”
”さて日本ではどうか。敗戦後,米軍の占領期を経て厳格なエスニック・ネイション(Smith…訳書,1998,Brubaker…訳書,2005)⑴として再出発した日本では,とくに外国人においては上記のような意味での「包摂型社会」になったことはないと言えよう。一般的に外国人・移民政策は,外国人の出入国に関する政策と在住外国人の社会統合に関する政策の二本立てだが,日本においてはいまだに前者しかない。これは,国として多文化主義が政策化されたことがないということを意味する。2000年代に入り,少子高齢化の進展による人口減少への備え,またグローバリゼーションへの対応や東アジア地域統合の観点から新たな外国人政策への模索が始まったものの,あっという間に忘却された。それどころか近年では欧米同様,政府レベルでも大衆レベルでも,目に見えるかたちの排外主義が横行している。”
”本特集のテーマは教育における「排除と包摂」である。まず,ここで筆者が述べておきたいのは,とくにここ日本社会で,そして本稿で取り扱う朝鮮学校の問題,ひろくは在日外国人の問題を考えるうえで,そもそも「排除と包摂」は二項対立的にすっきりと並置できるような対概念ではないということだ。おそらくそのねじれの原因は,日本における「同化」の位置づけにある。”