当事者性の高いことがらについては自然とコンシャスになるので他者からの差別に敏感になるし、自分も気を付けようとなるものの。
当事者性の低い、ましてや自分がマジョリティの事柄については知らない間に足なり顔なりを踏ん付けて平気な顔していたりする、ばかりか、「なんで痛がってんの?過剰反応じゃないの?」とか平気で言えちゃうのが私という存在であるので。
「私はエスニックマイノリティなのでジェンダーマイノリティの気持ちがわかりますよ」と勘違いしてしまう事が往々にしてあり。
だから「敏感な私が差別などするはずがない」という思い込みに陥りがちで、その思い込みを是正できないかぎり、いつでもやらかすことができるわけで。
マジョリティの俺様が可愛そうなマイノリティの側に立ってあげよう、みたいなのは論外にしても、我々というのは認知に限界があり、その認知の外では容易にやらかすことができる、という自覚を常に持ちたいものだよな、という。
どこまでいっても私にはわからない事がある、理解できないことがある、という事を理解するというか受け入れないと、行きつく先は「私はいい人なので差別などしません」という自己欺瞞みたいなものだよな、と。
とかいうことを最近モヤモヤと考えています。
私は日本においてコリアン三世というエスニックマイノリティなのでそこらへんには敏感になるものの、コリアンでないエスニシティに関しては鈍感であると自覚せざるを得ないし、同じコリアンだとして出自には色々とあるので、分からない事だらけで。
更には同じ境遇だとしても私と同意見とは限らず、というか、違っていて当たり前なので、理解したつもりになった時点でそういうトラップに陥ってるんだよなと。
ましてや、私はジェンダーでは男性なので、正直な所フェミニズムや性的マイノリティ理解に鈍感であり、本を読んだり当事者の声を聞いても”なるほどー”とは思いつつ当事者性はなく、自分のカテゴリのマイノリティ性をあてはめて推察することくらいが限界なので、”自分のことのように”理解できる、というのはそもそも実現不可能だよなと。
しかしその限界を知ることが無知の知になるのかしら、ということをグルグル考えてます。
反差別的な立場だった人が年をとるにつけどんどん右傾化して排外主義者になる、という例はどこでも見られるものだけれど。
こと日本においてそれが顕著に見られる気がするのは、私にとって日本語が第1言語ということと、晒される情報量からそういう印象になるのか。
あるいは本当にそうなのか。
判断は慎重になったほうがいいと思いますが。
ジャッジする材料はいくらでも恣意的になれるぶんだけ、学者でも多種多様な結論が引けそうではありますね。
てか日本では官製ヘイトが娯楽になっていて、それに丸乗っかりする人々が多すぎるというのも大きいのかも。