当事者性の高いことがらについては自然とコンシャスになるので他者からの差別に敏感になるし、自分も気を付けようとなるものの。
当事者性の低い、ましてや自分がマジョリティの事柄については知らない間に足なり顔なりを踏ん付けて平気な顔していたりする、ばかりか、「なんで痛がってんの?過剰反応じゃないの?」とか平気で言えちゃうのが私という存在であるので。
「私はエスニックマイノリティなのでジェンダーマイノリティの気持ちがわかりますよ」と勘違いしてしまう事が往々にしてあり。
だから「敏感な私が差別などするはずがない」という思い込みに陥りがちで、その思い込みを是正できないかぎり、いつでもやらかすことができるわけで。
マジョリティの俺様が可愛そうなマイノリティの側に立ってあげよう、みたいなのは論外にしても、我々というのは認知に限界があり、その認知の外では容易にやらかすことができる、という自覚を常に持ちたいものだよな、という。
まとめると、「私はあなたを知らない」「ていうか私は私自身も知らない」ということを認め、認めたうえで「私自身を知るように努力する」「あなたを知るように努力する」というエフォートを絶えず続けてゆく、という終わりのないプロセス以外にないのかな、という。