そういやヘイトスピーチに見るに見かねて仏教やってます、反差別です、とツイッターやり始めた頃に相互フォローになった方が"私が差別的な発言をしたら教えてほしい"と言っていたのだけれど、自分の属性意外への配慮があまり足りない方で、一度か2度はそれとなく注意したのだけれど全く意に介さなかったのでしんどくなってフォローやめたらショックだったのかブロックされてしまった、という事があったのだよな。
まあ、人間ってそんなもん、といえばホントそんなもんなんだよね。

ゾンビ映画で「俺がゾンビになったら迷わず頭を撃ち抜いてくれ」とばかりに「俺がヘイトスピーチしてたら迷わず教えてくれ」つってもその時になったら当の本人が指摘に無反応、っつー誰も救われない事がほとんど、という。
誰も救われない。

さて上の例から考察できることはなんでしょう。
ほとんどの人は差別している自分を"私は差別をしている"と認識していない、ということなのではないでしょうか。

つまりはエラソーに能書き垂れてる私も何かしらの差別をしているかもしれないが、当の本人はそれに痛々しいほどに無自覚である、という恐ろしい事実です。

COVIDに罹患してるのに無症状だった場合、検査をしない限りは罹患者だと判別できない感じ?
ちょっと違うか。

でもその差別は傍から見れば「あっあのひとパンツはいてない」ばりに明確なわけです。

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でも実際には
「あなたパンツはいてませんよ」
「(無反応)」
「ねえあなたパンツはいてませんよ」
「うるせえ俺がパンツはいてないワケがあるか!」
的な流れなんですよね。

で、何年もヘイトスピーチ、だけでなく差別的な環境に晒されながら生きてきた私がヘイトカウンターの真似事みたいな事をやりだしたのも、根本にはこの無自覚な差別への怒りがあります。
これに長年苦しんできたのだ、という。

しかしこれは、己を翻ってみれば、たぶんにミソジェニスティックであり、ジェンダーの多様性に不寛容であり、どことなく東南アジアの方々をうっすらと下に見ている、醜い醜い己自身を発見するわけです。

なので私にとって差別に反対するということは、究極的には己との闘いみたいな感じであり。

まあでもそういう修行僧みたいなのを全員に求めるのも酷というかムリな話であり。

一言でいえば”恥を知る”ということなんだと思うんですが。

日本語で「恥を知れ」という言葉はピンとこない方面がほとんどではないかと。
慚愧に堪えない、という言葉の慚愧という言葉はもともと仏教用語であり、hiri,otappaという言葉からきていて。
これを話すと長くなるんんだけど、要はまともに生きようとするならば道があり、その道から逸れる行為はダサい行為なので自律的に道を歩め、みたいな感じなんですけど。
と、基本を書かずに意訳的なことを書くと曲解する方がおられると思うので一度基本は抑えて頂きたいのですが。

まあ、何が言いたいかっつーと、反差別を掲げるのであればまずは己の差別的な思考からどうにかするべきなんじゃないですかね、みんなそういう自戒があれば人の足を踏むことも少なくなるだろうし、少なくとも踏んだとして指摘されたときに謙虚になれるんじゃないですかね、ということなのですが。

全員が全員それをできるか、というとまずまあムリだなと。
実際には社会は差別主義者がまき散らすドブで満ちていて、さらには根本には差別構造が政府によって生み出されているわけで、それに対する糾弾とかは私の提唱する修行僧みたい人々だけではとてもとても数が足りなすぎるわけで。

ザックリしすぎたことを言いますが、なんというか、RPGのように様々なスタンスがあって然るべきなのかなと。
戦士がいて、僧侶がいて、魔法使いがいて、モンクがいて、ニンジャがいて、賢者がいて、的な。
近距離は得意だけど遠距離はちょっとな!的な人もいれば、その逆もまたアリなわけで。
そういう方々の集まりでよりよい社会を目指す必要があるのかしら、と。

あとはまあ、SNSで論議は荒れるのは必至とはいえ、建設的な批判すらもダンマリしちゃうのはちょっと如何にも日本的でアレなんじゃねーの?と。
仲間内に向けられた批判を生温く見守るとかどうなの?とかちょっと思ってしまいますね。

まあこれはホント、文字だけではアレなので、音声会話や実際に会って話すみたいなコミュニケーションがやはり必要なのかもしれませんね、と。

というわけで、みんなでバーベキューしようぜ!(唐突

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