一言でいえば”恥を知る”ということなんだと思うんですが。
日本語で「恥を知れ」という言葉はピンとこない方面がほとんどではないかと。
慚愧に堪えない、という言葉の慚愧という言葉はもともと仏教用語であり、hiri,otappaという言葉からきていて。
これを話すと長くなるんんだけど、要はまともに生きようとするならば道があり、その道から逸れる行為はダサい行為なので自律的に道を歩め、みたいな感じなんですけど。
と、基本を書かずに意訳的なことを書くと曲解する方がおられると思うので一度基本は抑えて頂きたいのですが。
まあ、何が言いたいかっつーと、反差別を掲げるのであればまずは己の差別的な思考からどうにかするべきなんじゃないですかね、みんなそういう自戒があれば人の足を踏むことも少なくなるだろうし、少なくとも踏んだとして指摘されたときに謙虚になれるんじゃないですかね、ということなのですが。
全員が全員それをできるか、というとまずまあムリだなと。
実際には社会は差別主義者がまき散らすドブで満ちていて、さらには根本には差別構造が政府によって生み出されているわけで、それに対する糾弾とかは私の提唱する修行僧みたい人々だけではとてもとても数が足りなすぎるわけで。