当事者性の高いことがらについては自然とコンシャスになるので他者からの差別に敏感になるし、自分も気を付けようとなるものの。
当事者性の低い、ましてや自分がマジョリティの事柄については知らない間に足なり顔なりを踏ん付けて平気な顔していたりする、ばかりか、「なんで痛がってんの?過剰反応じゃないの?」とか平気で言えちゃうのが私という存在であるので。
「私はエスニックマイノリティなのでジェンダーマイノリティの気持ちがわかりますよ」と勘違いしてしまう事が往々にしてあり。
だから「敏感な私が差別などするはずがない」という思い込みに陥りがちで、その思い込みを是正できないかぎり、いつでもやらかすことができるわけで。
マジョリティの俺様が可愛そうなマイノリティの側に立ってあげよう、みたいなのは論外にしても、我々というのは認知に限界があり、その認知の外では容易にやらかすことができる、という自覚を常に持ちたいものだよな、という。
まとめると、「私はあなたを知らない」「ていうか私は私自身も知らない」ということを認め、認めたうえで「私自身を知るように努力する」「あなたを知るように努力する」というエフォートを絶えず続けてゆく、という終わりのないプロセス以外にないのかな、という。
差別主義者に「差別をするな」と言っても響かないのは意図的に差別していて改めるつもりもない、というのと、そもそも本当に自分が差別してると認識していないからではないかしら。
"日本では宗教がない"という言葉は間違いであり、実際には国家神道というカルトなファシズム装置が隅々まで機能しているわけですが、このカルトなファシズム装置には倫理というのが欠如してるんですよね。
なので"日本では倫理がない"というのであれば、それは大いに頷くところではあるかな、と。
例えば仏教もマハーヤーナに変遷したところで戒律、在家であれば五戒というモラルパッケージを守ることを是としているわけだけれど、日本で変遷してきたそれは見事にそれが死文化してしまっているというところを見ても、国家神道だけの問題ではないのだけれど。
ともあれ、文化的に倫理が存在しないのだからいくらでも卑怯になれるのかしらね、と。
どこにだって卑怯者は存在するけれど、それをジャッジするスケールが存在しないのであればいくらでも有耶無耶にすることができるよね、と。
"すべての差別に反対します"
の言葉の欺瞞性は、簡潔に言えば
"すべての他人がやってる差別に反対しますが、場合によってやってもいい差別というのはあります。また私はもちろん差別などするはずもありませんが、もし万が一やっていたとしてもやってもいい方の差別なので、改める必要はありません。向き合う必要もありません。私の差別はいい差別なのです。あと私が必要だと思う差別も差別ではありません"
なのかなと。
このツリーの一番上で言ってるように、まず自分は知らぬ間に差別しうる存在であるし、その知らぬ間にしてる差別は自分では認識の枠外なので気付かないのですよ。