『悪役令嬢の中の人』も「ミリオタリアリストは真心の人」でだいたい読み解けるな……。悪役令嬢の中の人と、『聖女クソオブイヤーっ』て同じで、「善行をするためにやたら盛大なリアリスト言い訳をする」が共通点。お前らどっちも真心善行やりたいだけなのに露悪ガワを好むという歪みの方がきもいよと思ってる。「みんな善行に気を取られるけど私は実は露悪なんですわよ〜」みたいな自意識をキープせずにいられないというこれはなんなんだろう。「承認されたいけど、善人であると期待されるとうざいからフリーハンドの余地を残して主観的自由を得る」みたいな手続きを感じる
あ、そうそう。『悪役令嬢の中の人』仕掛け(エミ/レミリア入れ替わり)を少年誌対応させるとサンデーの『タタリ』になるんだよな。こういう善人/憎悪の化身の使い分けってけっこう広く展開してるよなー、と。いろんなところで目にする。
https://x.com/sunday_promo/status/1846765580591989031?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
露悪リアリズムが「主体性」の代用みたいになってるよなあと思う。なんである種の人間が露悪ですわよ仮面を好むのかと思っていたが、文学的ペルソナだからだろう。「主体性」発露の形式になっている