異世界おじさんがSEGAカルチャーセンス、ハイスコアガールがアーケードゲームカルチャーのセンスを参照・紹介しているわけで、じゃあこれも都市型カルチャーなのかという疑問も浮かぶ。こうなると、前世紀末の「カルチャー」の狭さを批判的に検討するフェイズが必要だと思うのだが、そういう議論も存在していない。
他方で、「アニメで、ダンジョン飯という作品を知りました。この漫画面白いですね」といった声が今では20代ぐらいから山ほど出たりするのだが、えっ九井諒子ってメジャーでは? つかわりと「作家」認定だよね? 町田洋とかに比べてもはるかに知られているはずだが…と、かつての漫画読み秩序からすると愕然とするような落差を感じる機会が増えた。「知られている話題作」という枠組みはもう無いようなところがある。
00年代ぐらいに作家主義枠とメジャー枠のそれぞれの輪郭が変わって、その頃にかつてなら作家認定されなかった島本和彦、藤田和日郎、冨樫義博、荒木飛呂彦、三浦建太郎、内藤泰弘などが加わった気配があるのだが(従来より少年誌モデルが前面に出たことを意味する)、その変容は良い面もあるのだが、現在の「単にオタクファンダムで勝利してる書き手」と区別が曖昧になる状況の先触れのようでもあった。
10年代は、キャンプ(ゆるキャン)、サウナ(サウナ道)、飯、温泉、旅などいろんな「カルチャー」参照&紹介漫画は生まれたのだが、前世紀末までの都市型カルチャーとは雰囲気が違っている。それは疲れを癒すからとか田舎に行くからだという点のみならず、映画・音楽・ファッションの参照が伴う「上昇志向と業界参入のオーラ」の有無で分かれる。
他方で、都市型カルチャーとセンスエッジが持っていた覇権は、そのままジェンダー&セクシュアリティ批評言説への感度にそっくり引き継がれている。そしてその裏返しとしてもろもろの業界のセクシズム体制、性加害側面への批判的検討が一気に進む過程にある。
かつての都市型カルチャーセンスとジェンダー&セクシュアリティ批評言説で共通するのは、一定の上昇志向と美的なものを含むエンカレッジ要素などだ。温泉やサウナ、キャンプにはそれらが無いので、かつての「カルチャー」と連続的に見えない、という印象が起きているんだろうと思われる。
だが、「カルチャーと漫画」として」考えるなら、上昇志向やエンカレッジと、必ずしもそうではないが別に現状追認ってわけでもない、という多元的な評価軸で全部総覧した方がいいんだろう、となる。
都市型カルチャーは、「文化の先端性」と言い換えれて、先端幻想とその秩序が変動したことを考えるといい。グラビアモデルよりはファッションモデル、さらには俳優、さらには映画祭で受賞が上位にあるという序列自体は滅んでない。マンガ内部でそれらのモチーフが取り込まれたことは、マンガ自体が文化の上昇運動をトレースしていたし、読者層にとっても階級移動のドライブと結びついていたからだ、と整理できそう
で、ここで考えるといいのは、スラダンはスポーツマンガなのにファッション的先端性と交差して「バスケかっこいい」を生み出したことで、スポールはグローバル競合に直接晒されるわけだ(幻想の範囲で世界戦をやってたのが70−80年代漫画だった)。00年代以降はワールドカップや五輪、今なら大谷翔平の活躍が「文化ならざる先端性」のモデル。スポーツ漫画がカルチャーなのか非カルチャーなのか、わりとぶれるのはここにありそう。『ジャイアントキリング』や『アオアシ』には階級への視線も卓越性もあるが、カルチャーに対して武器があるかというと怪しい。でもその分広く読まれる力もありそう。