ペラペラクソコンテンツ掘り人として、見ておくか、という気持ちが高まってきた。
“『PERFECT DAYS』、高学歴インテリジジイ向けのなろう系映画なので一見小汚いジジイだけど目の前仕事を真摯に向き合う姿や本質的なセンスの良さから本物を見抜く若い女から好意を向けられるシーンがある。”
https://twitter.com/tanaka_tooru_/status/1761067827409338614?s=20
K村匡平がPERFECT DAYSを絶賛し、この作品に共感できない人と仲良くなれなさそうとか言い放ってると知ったので、別の関心系が発動してきた。
この背景には、どうやら映画好き&映画批評家&映画研究者の「エッセイ的味わい」への無防備さがあるな。ヨーロッパ映画の味わいを、「エッセイ要素に真理性を見出す」としてしまう罠が、映画を取り巻く「ジャンル(の権化としてのハリウッド)vsオルタナティブ(としてのヨーロッパ映画や映画祭映画)」の図式に付随しているんだろう。
映画はメディウムの条件としてリアリズム秩序が強いので、アブストラクトや構造には(造形芸術ほどには)向かわない。そこで、エッセイ的なものの罠が問われにくいのかもしれない。
エッセイ的な「グッとくる」への脆弱性を抱えているのは文学研究者のみならず、映画研究者もそうで、ある種の漫画読みもそうなりがち。
雑誌ジャーナリズムや読み物の世界では、この手の脆弱性はむしろ格と味わいとして語られるから、一定のリテラシーがないと突破できなさそうだ。