しかし関ヶ原、あんな天候悪いところで…みたいな感想しか出てこない。

場所的な話ってなら、京から見て鈴鹿山脈の向こうが東国方面て感じでココが防衛ラインになってること、米原-大垣間はその山脈を横断するとき必ず通る狭隘路でなおかつ関ヶ原はその狭隘路で大軍が展開できる程度に開けていること辺りからの地形的な必然かなぁ。
米原-大垣間は私が聞いたことある範囲で壬申の乱(7世紀後半)とか承久の乱(鎌倉時代初期)とか南北朝の戦いの頃にも決戦て呼べる規模の戦場になってるねぇ。

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なるほどねえー。なかなか地図を3Dで意識しないけど、山脈考えると確かにここが最適な場所なのか。
一方だけに有利な場所だとお互い陣を構えようと思わないもんね。

ただでさえあの辺りで日本列島が狭くなってからねー。交通でも軍事上でも重要地らしくって、徳川幕府は美濃の国を細かく分けて譜代とか松平系の大名を多く配置したり両隣の尾張に御三家を置いたり反対側の彦根に譜代の大名門の井伊家を置いてるくらいに重要視してるよ。

どうする家康でようやくあの辺のごたごたが地図上の面で理解できたんだけど、あの辺ほんとずっとごたごたしてたから、家康が用心するのもとてもよくわかるよ…。平地に向かってくる道がいっぱいあるからごたつきやすいんだなーって。

大まかそんな感じ。近江も尾張も街道交易の要衝で、美濃はその両方に睨み利かせられる場所だからココを取られると非常に拙いのですよ。だからこそずっとごたごたしてるし、そのごたごたを纏めてしまえる人が出てくると大躍進する。織田は尾張の経済力と美濃の要衝をあわせて抑えられたから天下に号令できたわけだし。
なので徳川家としては「美濃一国」は誰にも任せられないw

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