『まだ明日がある』後から気づく伏線がまた良いのでもう一回くらい観たいな。視聴制限あるから早めに観て欲しい…
夫からの暴力に耐え家事と低賃金労働に明け暮れ(「なんで私があの何もできない新人より賃金が低いんですか」「そりゃ男だからな」)そのことをもって娘から疎まれるという女の一生レアリスモに音楽がまた違うトーンを重ねてた。
暴力シーンをトーキーの様にダンスと音楽で表現するところ、暴力を消費しないという意志にも思えた。
『まだ明日がある』、素晴らしかったな。パオラ・コルテッレージの抑圧の中でパキパキ動き回る人の身振りが本当に見事なんだよなあ、良いなあ。そしてこれが初監督なのも本当にすごいなあ。この物語を音楽劇として見せるというのが素晴らしい。
異人たち、常に何か恐ろしいことが起こる気配が漂っていて不安を覚えながらみていると最後ふと恐ろしいことはもう全て起こってしまったのだと気付く。
やっと映画館に復帰。ということで『異人たち』見てきた、しみじみとよかった。ファーストシーンからガラスや鏡に映る姿の無限の広がりに人間の哀しさがうつっている。ありえたかもしれない複数の人生。いろんなことが曖昧なままなのも物語のあり方として好きだった。そうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな…アイアンクローに並ぶタイトルの良さ(わたしたちみんな!)も光る。
アンドリュー・ヘイは「親密な他人」(異人というより他人のニュアンスが生まれている気がした)の話が本当にうまいですね。みんな後悔してるし、みんなさみしいし、やさしくしたいしやさしくされたい、を抱えている、その感情は生死を問わず存在し続ける、そうでしょう?
台詞で言及されることもあって、キングの影響も強く感じられる(ホラーとは愛の物語である)ゴーストストーリーとして非常に好ましく見ました。私はアフターサンのよさはよく分からなかったけど(ポール・メスカル以外にも共通項は多いと思う)こっちは素直に好き。「足りることなんてないのよ」に込められるすべて。
しかしアンスコさん本当にうまいな、顔がこどもになってるときと普段の表情とどっちつかずになってるときが全部違う…その潤んだ目や泣き出すのを堪えるような口元にただただ見入ってしまうのだった。
しかし犬を捕まえて川に沈めようとするわ蛇は振り回す泥の中で取っ組み合ったかと思えば頭を掴んで川に突っ込む。抜き差しならない出口のない貧困の中で生きていかざるを得ない彼らの状況をナレーターは語るけれど子供達の尋常ではない躍動に引っ張られるようにちょっと可笑しい。「無二の親友でいつもつるんでいるが些細なきっかけでつかみ合いの喧嘩をする。1人は泥棒に1人は警官になった。」
警官が来ると蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、逃げそびれた弟らしき小さな男の子を連れ帰りに戻ってきた少年はどれだけあんたらが水遊びを禁止しようが戻ってくるとふてぶてしく宣言する。日が沈んだ川辺で長い丸太に腰掛けてタバコを吸うシーンの静謐な美しさ。
「女性として生きること」労働者としての貢献を無視され続け、年がら年中子供を作らなければ神父に「神の恩寵を無駄にしないように」と諭され、出世の見込みのない単純労働に明け暮れ教育は受けられず、朝から晩まで働かなくてはいけない母親の代わりに上の娘が家事と兄弟の面倒を見ることになり11歳にして小学2年生の学力しか身につけられない。「女3代でようやく小学校2年生の学力に辿り着いたのだ」というナレーションが苦しい。
福岡市立総合図書館シネラでチェチリア・マンジーニ作品集を観た。「都会の名もなき者たち」ローマ郊外の10家族が雑魚寝するアパートの狭い一室から街の中で電車賃もない少年たちがたむろしゴミの山から拾い集め石灰を口に含んで吹き付けて遊びどこからともなくかけてきた群れに溶け込み丘を駆け下り川に飛び込む。「女に言い寄れば一人前の男になれたような気になるのだ」というナレーションのマチスモに対する眼差しと少年たちの尋常ではないエネルギーの躍動を映す眼差し。
「ステンダリ 鐘はまだ鳴っている」ブーリア州の葬式に集う女たちの様式化した嘆きのドキュメンタリーでスカーフを三角に折って両手に持ち棺を囲んで左右に揺らす身振りや踏み鳴らす足、女たちの顔のアップ、背景に止まる男たちの横顔、とダンスみたいにリズミカルに切り替わる。最後棺が男たちの手で家から運び出される時現れる司祭が首のとこでスパッと切られていて棺を囲む女たちとの対比ですごい画面になってた。
「マラーネの歌」あ、あ、あ、あ、と声を上げる少年の顔が顎から見上げるような角度でスクリーンの下から徐々に上にいく冒頭が無茶苦茶かっこいい。そして子供たちのスーパーノヴァみたいなエネルギーの爆発が凄まじい。しかし栄養失調寸前で空腹を小さな川魚やカエルで紛らわす状態でもある。
筏